無料ブログはココログ

« キネマ航空CEO 700便の増発を発表 | トップページ | キネマ航空CEO、就航一周年ご挨拶 »

2011年12月 8日 (木)

キネマ航空CEO12月8日に考える。えーっ!? 戦争ってゲーム知能で行なうの?アウトレンジについて考える

12月8日ということもあり、12月3日のブログで案内をした「キネマエアラインズ・マガジン」の長編コラム「B-25 ミッチェル 二人の軍人の間に存在する爆撃機」の『山本五十六と海軍航空政策』の項でおこなった 加筆 からは、はずした個所を再編集して掲載します。

ここまでの本編の文脈は日本が誇りとするアウトレンジにとらわれた仕様書による『大和』や『零戦』を神話化し、それがいまも日本人のこころの寄りどころとされているようでは本来の技術を革新する能力を永久にもてない恐れを感じます。少なくとも脱亜入欧を目指した日本人が工業、工学といった分野でどうして目指した方向から分化してゆき失敗したのかを反省する必要があることから始まります。

以下は戦争の枠組みをゲームを通した闘争心のありようから考えたものです。文中、相撲、柔道、剣道、将棋、囲碁、を取り上げていますが、これらそのものの優劣をあげつらったものではなく国民性にどのような影響を与えているのかを考えたものです。当然、時代により変化はあるのですが勝負ひいては戦争にかかわる闘争心と戦うときの戦略、戦術ついての国民性には密接にかかわっているはずです。

軍人や政治指導者はどんなゲームが好きだったのか、どのような娯楽映画や小説が好きだったのか(自伝では出てきませんが)を通して戦史を読むのも国民性を考える切り口になると思えます。もちろん古今東西の戦史、戦記を読み深く分析しているでしょうが解釈したり再構築する過程にはこれまでの生活にしみ込んだ文化が否も応もなく今度は染み出してきます。

(承前)
どうも普通の日本人には欧米のやったシステムの変換(承前注 巨砲戦艦対高速戦艦、軽戦闘機対重戦闘機)とは少し違う、既存システムの外挿延長線上での『ものづくり』ということばに代表される抜けきれぬメカニズム信仰があり、優秀なメカニズムと無私で操作をするそのオペレーターの組み合わせで行なわれる遠い、戦死でさえ映像的に美しい戦争に映る海戦や空戦で戦争に勝利すると考えているようである。

日本のアニメなどではその流れをつないでいるような気がしてならない。いっぽう、アメリカでは次世代戦争システム(いわゆるパラダイム)の変換を意識しており無人(正確には遠隔操作)機でおこなう攻撃機を実用化しており、やがて高価なステルス機に代える多量の無人戦闘機による制空に行きつくと思われる。こうなるとアメリカ人の日本人化ともいえるかもしれない。

戦争のパラダイムはいかに腕を長くするかの技術競争である。古くは長い棒からはじまり槍、弓矢、投石器、大砲となる技術の発展史であった。現代戦では炸裂する爆薬をどのようにして遠くに運ぶかの技術競争となった。これらの歴史がアウトレンジの原点と競争である。

戦艦の大砲の飛距離を伸ばす技術に対抗する技術が飛行機による爆撃でありさらに空母と組み合わせてさらに延長する技術となった。日本が始めた対米戦争はこの狭間で起こっている。

日本はこのパラダイムのなかで何々道と呼ばれる武術の極意とされる一瞬の間合いで勝てると思った。その思い込みは日常に馴染んだ勝負のルールによって慣れ形成されていると考えることができる。

たとえば、仕切りから始まる『相撲』は戦略の試合であり、立会いの間合いをはずされた相撲ほど弱いものはなく柔よく剛を制す、とか小兵が巨漢を食う、という(「あとは成り行きで」は無いものとして)観戦の醍醐味がある。また組み手で行なわれる『柔道』は戦術の競技である。間合いは読むであろうが本質は作戦の実行もしくは状況の判断で成立している。

「間合い」といえば時代劇の「居合」や西部劇の「クイック・ドロー」にも通じる。実戦という意味では居合は個人の鍛錬、修養のためであろう。いずれも小説、映画で見ると人目は引き、実際に「間合い」で勝つ戦略を立案してみたい誘惑にかられる参謀もいるだろうが「間合い」つくるためにはお互いに身体を曝している。「間合い」は戦術なのである。

立会いの「間合い」で勝つ戦略は現実の戦争のルールのなかでは奇襲をおこなう側の心理でしか成立しえず繰り返して相手に対して使える案ではない。日本人はこのような「立会いの間合い」を戦略と考えて戦争していたのではないかとおもえることが多い。

盤上の戦いでは『将棋』と『碁』がある。将棋のルールは戦場となる盤の上の兵は死ぬことなく味方として生き返る、という現実の戦争にはありえないルールである。そして「玉」が包囲されることで終わり、死ぬことはない。もっとも兵を動かした参謀である巷の棋士は幾ばくかの賠償金に相当する賭け金を支払うのであろうが。

囲碁は土地を二者で分配するという本質的に戦争と同じ目的であり、開戦の前に行なわれる図上演習として戦略で戦うゲームである。将棋の駒が兵士なら囲碁の石は植民地を囲う砦と言ったところであろう。

ゲームにはルールがある。もちろん戦争にもルールはあるがその国の民族性でそのルールを自己中心に解釈して行なうのが戦争である。そのルールの解釈の中にゲームのルールの翳はなかったかどうか。

囲碁は中国が発祥の地だそうだが二流の余技と甘んじられており、西洋世界にも浸透しなかった。その間日本では教養の一部となったが明治以降の近現代史のなかでは勝負に固執する頭脳を強化したのみだったようだ。第二次大戦後は中国、韓国へ日本ルールの普及も進み、現在のところ日本の棋士は苦戦をしいられている。

いっぽうの将棋はインドが発祥の地らしい。これは各地に広がり、いくつもの類似ゲームとなった。戦争と密接に結びつくのは日本人の戦闘ゲーム感覚で磨き上げた『将棋』に対して西洋で洗練された『チェス』となる。チェスの場合は駒を失うことがあっても復活することはない。そして敗北を宣言する場合は自らの「キング」を、自らの手で倒すことでおわる。そしてあらたな王を立てて戦うのである。

こうしてゲームを通して日本の戦争を振り返ると節目、節目で日本特有のゲームのルールが顔をだして錯覚を重ねている。たとえば緒戦に勝てば勝てる。占領すれば将棋の駒のように兵も住民も日本に協力する。最大の錯覚はポツダム宣言受諾前の混乱に透けて見える日本の将棋のルールでチェスのルールの国と戦ったことである。

いっぽうのヨーロッパ戦線では戦略爆撃によるアウトレンジと双方ともチェスのルールでおこなう地上戦のなかで決着した。

しかし西側は朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソビエトはアフガンの地上戦ではアウトレンジの究極の戦術である核兵器の使用ができなくなり、人海戦術やゲリラ戦にはこのアウトレンジのパラダイムも通用しないことが実証された。これらの戦いは陸軍が踏込んだ地からは撤退をすることで終息する、勝ったといえない終結であった。

つまり、西洋と日本で繰り広げたアウトレンジの戦争のパラダイムにも弱点がある。アウトレンジはその先端で戦う限りにおいては有利なのであるが、いったん中に進入されるとあるいはアウトレンジで覆ってしまうと弱点となる。とくに欧米の戦争のパラダイムを支えた地上戦ではゲリラ戦に曝されることになる。

アウトレンジには武器の届く距離だけではなく、その武器を使う相手が見えないことも、見分けがつかないことも、含まれる。また核兵器や化学兵器の使用は相手側のモラルに移ったことを中東における宗教戦争を透して理解せざるおえなくなった。

ゲリラ戦の条件として地形、気候、兵士の信念といったものがある。日本の敗戦時に当てはめるとこれらの条件では優れた指導者がいれば戦闘継続は可能だったと思われるが将棋のルールでは戦闘継続は不可能だった。

「剣道」などはまさにアウトレンジの内側での戦いである。しかし正々堂々のルールでは戦争はできないことは明らかである。覆いかぶさったアウトレンジのなかでは短い人間対人間のアウトレンジの戦闘が前提となる。日本がやろうとした日本刀や竹槍の突撃ではピストルや機関銃相手の戦に戻るアウトレンジのスキームが生きている。現在のゲリラ戦が刃物で行なわれることはまずない。

その結果が、航空機やロボット戦闘車両を遠隔操作で戦闘させる次世代戦争システムであり占領や軍政をともなわない戦争のパラダイムの構築である。このパラダイムの究極的な展開は対中国となる。具体的な展開は以下のようになると思われる。

 ・米軍は沖縄より後退する
 ・中国の弧状列島への侵略を待つ
 ・ウェーク、グァムなど洋上の島、第七艦隊を使ったメカニズム兵器対人海戦術
  の戦闘を行なう
 ・適当な段階で休戦協定をむすぶ。

基本的にアメリカは中国本土で地上戦をおこなう意志はまったく無い。アメリカの戦略は中国を弧状列島内に封じ込めることにある。いっぽう中国は本格的に太平洋に進出する場合は外洋への海路を確保するために人間により要塞や港湾の確保できる弧状列島の一部の島を占領する必要がある。

すなわちアメリカにとってやりたい戦争は敵の侵略と前線が明確な条件下での戦闘であり、中国は西欧やロシアが経験している兵器システムの戦争は経験していない。

アメリカはといえば孤島をめぐる戦闘で大量の戦死者を出しながらも飛び石づたいに前線を自由に選び勝利した経験がある。この作戦は(一回限りしか実行していないので)敗れたことはなく、今度は兵士の血を流さずにやってみたい戦争である。

結果的には東シナ海のガス油田や尖閣諸島は手打ちの手土産にすることもありえる対中国封じ込めの戦略プランである。しかし、はたして中国に漁業資源は別にして太平洋に出る意志があるのかどうか。

ソビエトは先の大戦に乗じて千島列島を押さえ、キューバに軍事的な橋頭堡を画策したがケネディに撃退される。チェスの国であり大陸の国では海洋は軍事上の扱いであった。

しかし中国はアフリカの資源に着目したり自由主義国の資源に投資するなどと同様に公海の海底にある資源に着目している。国連海洋法条約の制限はあるが同法には紛争も想定しており中国は拒否権を持つ国である。

アメリカ自身が自分で思ったよりもずっと早く国力が衰退してしまい、月面着陸の後回しにした海洋開発は資本主義では投資の対象にできなかったが、中国は公海上に経済圏の主張をする活動に着手可能な国家体制であることがアメリカの焦眉となる。

アメリカの軍備再編と対日政策のディレンマは沖縄撤退後に日本がなし崩しに中国の海洋通行権を認めてしまいそうなことである。日本の自衛権発動を起こさせる中国の具体的な戦闘による侵略がない場合はアメリカの戦略的敗北となるのである。

かくして思考においては日本の行なった『将棋』対『チェス』の戦争の勝敗の後を受けた『チェス』対『囲碁』の思考でなされ(てい)るかもしれない、そして日本は思考停止したまま何もすることのない、見えない戦争を思う日でもある。

いずれにせよ戦争は対峙する国民、周りの国の国民のもつ国民性によって左右され、巻き込まれる国の勝敗もしくは漁夫の利は開戦以前に蓄えたシステムの準備と準備を可能にしたパラダイムの考察によって決まることが12月8日の歴史的教訓である。

革新政党のアジテーションでは沖縄は香港並みの自由があれば中国の支配下にあるほうが幸福と思わせる。また中立と称する現地や本土の新聞の誘導する論調もそれに近く、政権政党のなかにもあるようだ。それをパラダイムとして日本の国を導くことになるのかどうか・・・この結論を当CEOが見ることはたぶんないであろう。

ただ、日本人は戦争には向いていない民族性が根底にあり、それがたまたま国際デビューした途端にいい調停者がいて(ある意味では代理戦争)で二度も対外国の戦いに勝利したこと、三度目は漁夫の利であったことを自覚せずに戦争を企画し行きづまったところで準備も無いままカードをきった失敗は忘れてはならない。

その反省が憲法九条かとなれば分からないが、戦争を放棄したのであれば今後100年をどのようなパラダイムと捉えどのような準備をして漁夫の利を得るかが、紛争を起こさせない、おこれば終息させるための外交と共に政治家や外交官にたいする国民の負託となる。

その漁夫の利で荒廃した戦場を回復し、民衆を助ける工学技術を準備するかが日本の目指す方向であろう。

« キネマ航空CEO 700便の増発を発表 | トップページ | キネマ航空CEO、就航一周年ご挨拶 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/570012/53434102

この記事へのトラックバック一覧です: キネマ航空CEO12月8日に考える。えーっ!? 戦争ってゲーム知能で行なうの?アウトレンジについて考える:

« キネマ航空CEO 700便の増発を発表 | トップページ | キネマ航空CEO、就航一周年ご挨拶 »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30