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2013年6月 1日 (土)

キネマ航空CEO 橋本徹(市長?弁護士?推理小説作家?)とフォークソングについて考えるついでに「日本人」も考える

書いてはみたものの谷川氏の詩の仕分けの部分は書き直すかもしれません。

当キネマ航空CEO の人物評はご本人が職を退いてから書き始めているが、今回はどうやら国政政治家としての命脈が怪しくなってきた、ということで書き進める。

皆さんは「死んだ男の残したものは」という六連の詩もしくは六節の詞はご存じであろうか?

作詩は谷川俊太郎氏。一連ごとに「死んだ者」が「残した者(もの)」と「残さなかったもの」を並立させて綴り、そのうちの「残した者(もしくは、もの)」が「次の死んだ者(もの)」となって続いていく。

まず、死んだもの、と、残したはもの、は、

(妻、子ども)→(しおれた花、子ども)→子供(ねじれた脚、乾いた涙)、

そして、四連目から言葉は転調もしくは変調する。「残したもの」と「死んだ者」が言葉ではつながらなくなる。

第三連 で残されたもの(ねじれた脚、乾いた涙)
第四連 兵士こわれた銃、ゆがんだ地球
第五連 彼ら兵士たちそれとも男や女に子どもを含むのか?)→生きている私あなた
第六連 死んだ歴史輝く今日とまた来る明日
(歴史ってなんだ?私とあなたが生きていることで死んでいるのか、単に彼等が死んでいった年代記なのか?たぶん生きているけど何もしなかった結果だろうけど・・・)

では、「残さなかった」ものはというと、第三連まで「ほかには何も」のフレーズに重ねられた、

墓石ひとつ着物一枚思い出ひとつ

に、つづく第四連からは

平和ひとつほかには誰もほかには何も

となって、第四連に重ねられたのは「残なかった」から「残なかった」と可能性を否定する動詞もしくは否定された意志を表す文脈に変わり、第五、六連では第四連までの過去形から「残っていない」と継続を表わす現在形に変わって、これが二度ずつリフレインされてメッセージ性を強調している。

これに武満徹氏の曲が付き、その歌曲は多くの日本人に日本語でスッと心に落ち込むことになる。

ただ、この詩をアメリカのアーリントン国立墓地で歌えるか?となると、どうであろう?

改めて明言しておくがこの詩、この曲を貶めるつもりは毛頭もない。

さて、この詩および曲が創られたのは1965年であった。

谷川氏がインスピレーションを受けたと思われる歌に「花はどこへいった」がある。

こちらは1955年にアメリカのフォーク・シンガーの草分けピート・シーガーの作詞で三番まで作られ、創唱された。続いて1960年ごろにジョー・ヒッカーソンが二連の詩を続けている。

第一連は「花はどこへ行った」から始まり行き着いた先で終わる。続いてその先からその先へと尻取り遊びのように続く。

花は少女へ」→「少女は 男の許へ」→「男は兵隊へ」→「兵隊は墓へ」→「墓は花で覆われた

最後の第五連では第一連につながり、歌う場合も第一連に戻り六連の詞となって永遠に輪を描く。

またすべての詞に、二度の「いつになったら彼らはわかるのだろう」のリフレインがついている。

彼らthey)」となったのは後ろの二連が追加されたときに「いつになったらあなたたちyou) はわかるのだろう」から改変された。歌い手と聞き手の関係に加えて第三者へのメッセージが加わったのである。

これらを多くのアーチストがカバーしていく過程で第三連の「男は制服を着た」というシーガーの比喩的表現は「兵士」に置き換えて一貫した論理性に整えている。

こうした改変には第二連の「若いの許へ」から「の許へ」と変わるなど、アメリカの倫理観の反映もある。

で、先の問いに戻る。この二つの詩または詞はアーリントン国立墓地で歌えるのか?

たぶん、後者は抵抗は受けるであろうが歌えるであろう。(they)が何を指すかは公知の記憶となっており、それを否(いな)とする人たちはいる。

ただ、聴き方を変えれば鎮魂の曲にも聞こえる。この詩は論理的ではあるが旋律にのると二面性を持つ「メビウスの永遠の輪」である。

では、前者は?

日本語で人知れず歌っている分には問題ないであろうが、ひとたび英語で声高に歌えば激しい抵抗があるはずである。

父や息子や夫、今になれば母や娘や妻が「ほかには何も、平和一つ」さえ残さなかった、加えて「ゆがんだ地球」と「死んだ歴史」をのこしたと断定しているのだから。

橋本氏は、これを、もしくはこれに近いことをやってしまった。歌うこと(と同時に、内容)が正しいことであっても、である。

橋本氏は沖縄における米兵の所業を米国内の問題につなげるために、米軍基地で小さな石をなげ、その波紋を特派員協会で広げ、訪米へつなげて、そこで大きな石を投げる、といったシナリオであったと思われる。

ところが、国政への野心がある橋本氏は、それをいまの政権が国内問題にとどめている韓国が国家として主張する慰安婦問題と不用意に結びつけてしまった。

米国で投げる大きな石を先に投げたのである。さらに言えば小さな石にも後の論旨につなげるためか、より不用意な伏線を張ってしまっていた。

橋本氏は、言葉で商売をする弁護士としての力量の限界をさらしてしまった。弁護士もさることながら推理小説作家としてもいささか頼りない。さりげなく公開した手掛りを読者に悟らせずに犯人にまで結びつける構成力はなさそうだ。

ただ、「国政」は「外政」であるとの認識は正しい。北朝鮮や中国のような鎖国国家であってもそうである。むしろそう認識して行動している。日本はアメリカを出島にした鎖国ではやっていけなくなったのである。

アメリカには日本のような「外務」省はない。「国務」省がその任にある。日本の外務(外国とのバランスを考える)官僚が国務(国益を考える)官僚を相手に太刀打ちできるのかの根本問題である。

かたや、地方自治体の長(おさ)には「おもてなし」の能力があれば十分に「外交」はできる。橋本市長にはそちらで頑張っていただきたい。

「ところで、二つの詩を不用意に結びつけているのは、お前のほうだ!」ですって?

「うーむ!それは、まだお後はよろしく、ないようで・・・」また来る次回に続くのだー。

次回は、

キネマ航空CEO 橋本徹弁護士をほっといて、フォークソングと「日本人」について考える

前書きもあるよ。

キネマ航空CEO 現代(同時代)評論の書き方を教授する?

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