無料ブログはココログ

« キネマ航空CEO 「風立ちぬ 」、零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 3) | トップページ | キネマ航空CEOの 「春野の休日 2013秋」 の後に、中山間地の土木行政について考える »

2013年12月23日 (月)

キネマ航空CEO 「風立ちぬ 」、零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 4)

「風立ちぬ」の最終回、例によって「後書き」による「前書き」です。
キネマ航空CEO 「風立ちぬ 」、零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 3)、と同時公開。

---------------------------------------

「風立ちぬ」は、宮崎駿監督の劇場公開アニメーションの中では異質である。本作を除くほとんどの作品は愛、勇気、成長といった普遍性の中で描かれて国際性を持っており、その中で安心して親も子も作品の世界に親しんでいた。しかし、・・・

「風立ちぬ」はそうではない。安倍首相も頼みとするクール・ジャパンを越えて、日本人に向けた日本の現代史への誘(いざな)いである。

少なくともこの作品の中からその結論が得られるものではない。他人の批評を参考にしてもいいが自分で考えなければならない。

その意味では、監督は大きな転換を行った。もはや劇場公開をする長編アニメーションで自らの考えることを構成することはできないと思い定めたように感じる。

できるとしても、これからも日本を襲うであろう天災や、あるかも知れない戦争を、菜穂子と二郎の恋愛と周囲の人たちを通して夫婦とか家族のありようとして描くしかなかった。

これからは、宮崎駿氏としての画筆、文筆で語られる言葉を通じて、最終作として公表した「風立ちぬ」を観ることになる。

作品自体は、

左からは「兵器を開発した設計者の反省、その兵器で踏みにじられた隣国への謝罪がない」とたたかれ、おまけに「煙草を喫うなと」とねじ込まれ(あっ!これは左ではないね・・・単なる蒙昧)。

右からは、「零戦の活躍シーンがない(・・・これは必ずしも右ではないか?)」、から、当CEOから見ると単なる決めつけで「左翼」などとたたかれる。右から見れば、なにをどう見たって左は左、鏡を見ると右は左なんだけど・・・

「風立ちぬ」の公開後、零戦に関する宮崎駿監督の発言は、モノである「零戦」を神格化するな。

神格化される根拠は勝者のアメリカが弱い敵と戦って勝ったのでは、さまにならないから「テリブル(恐ろしかった)」といっているのを、一部の日本人が真に受けて喧伝したに過ぎない。

歴史や社会の中では一過性に過ぎない*モノを日本人の(かつての、から、将来への)情緒的精神性に結び付けることの恐ろしさを考えてほしい、という趣旨のようである。

* うまく説明できないが「モノ」にはその価値を発揮する期間があり、それを過ぎれば(工学)技術的な分析に裏付けられた総括とともに博物館に収まるかマニアの妄想の中で生きるかしかない。

当キネマ航空CEOもそう思う。

------------------------------------------

「モノ」である零戦がそれほど神格化されるには使用された期間を通じて常に相手より優れていたことで証明されなければならない。

零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 1)、では、

「風立ちぬ」の中で、堀越技師の生きがいである飛行機の設計の目的は「美しい飛行機」、となんども繰り返される。

この美しさは、宮崎駿の過去の作品から推測すると、使用した人間を含めた運用上の美しさとも取れるが、そうでもなさそうである。

まず、(その 1)では、確かに美しい零戦の機体とライバルの機体をフォルムとして考察して、零戦は開発時点で形状自体がすでに工学的には時代遅れになっていたことで得られた美しさである、ことをまとめた。

零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 2)

ここでは、一般に強調される(数値化されない)空戦性能ではなくて、諸元表にある燃料槽の仕様と航続性能から戦闘機としての戦域滞空戦闘能力を計算してみた。

結果は、

零戦 21 型は仕様通りの長距離護衛戦闘機としての性能を持っており十分に優れていたことは間違いなく、相手がその設計仕様に合わせた戦闘をしてくれている間は優勢を保てた。

しかし、戦局に合わせた改造仕様の 52 型は、速度などの注目される表面上の性能は向上しているが、滞空戦闘性能は著しく劣化している。

52 型は防空戦闘機にも護衛戦闘機にも向かない状態になっていた。(もしくは、出回っている資料の性能自体に転記時の誤記、あるいは元になった仕様書作成時から改ざんあるいは秘匿されていた可能性がある)

零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 3)

ここでは、兵装と日本が参戦しなかった第一次大戦とスペイン内乱での航空戦が第二次大戦の航空機に及ぼした影響から零戦の搭乗員の全仕事を考えてみた。

少なくとも零戦 21 型に対抗して開発されたアメリカの戦闘機システムを相手に戦うには 21 型も 52 型も搭乗員の精神力しかなかった。

この時点では「ゼロ」は恐ろしいものではなくなっていたと考えられる。

その悲劇的な精神力を、兵器としても不完全となった「モノ」である「零戦」と同一化、神聖化して語り継いでいいのかどうか。

日本人には情緒的な「滅びの精神美学」という厄介なものもある・・・

--------------------------------------------

1941年生まれは戦争が、ものごころに残る最後の世代である。宮崎駿監督の戦争観、歴史観が現れたアニメーション作品には初期の「風の谷のナウシカ(1984)」がある。

しかし「風立ちぬ」と並べるテキストとしては同名のコミック版1~7(1982.2~1994.3)に注目したほうがよい。

アニメーション作品とは大幅に異なっている。こちらには(当CEOも理解し解読しているとは言えない)国家観、(選ばれた人の、ではあるが)生死観が複雑に入り組んで語られている。

奇しくも、その最後のコマの言葉は「風立ちぬ(2013.9)」 と同じ、

生きねば
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・

であった。

--------------------------------------------

「風立ちぬ」に触発された「零式艦上戦闘機」全4回 / 完

注・・・一応、以下の使い分けをした
怖(こわ;おそろし)さ : 言葉を発した本人が感じる場合
恐(こわ;おそろし)さ : 周囲の人も感じる場合

« キネマ航空CEO 「風立ちぬ 」、零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 3) | トップページ | キネマ航空CEOの 「春野の休日 2013秋」 の後に、中山間地の土木行政について考える »

「風立ちぬ」」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/570012/58421261

この記事へのトラックバック一覧です: キネマ航空CEO 「風立ちぬ 」、零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 4):

« キネマ航空CEO 「風立ちぬ 」、零戦の「美しさ」と「怖さ」について考える (その 3) | トップページ | キネマ航空CEOの 「春野の休日 2013秋」 の後に、中山間地の土木行政について考える »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30