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2014年11月 8日 (土)

キネマ航空CEO 読書眼鏡を試す - 『永遠の0』と『蜩の記』を読むの巻

2014.11.08 公開後、加筆。 同11.11擱筆

(承前)キネマ航空CEO 読書眼鏡を買う

さて、使ってはみたものの、慣れるにはそれなりの時間がかかりそうです。
レンズで矯正した左眼の焦点が合う範囲は極めて狭くなっています・・・水晶体を調整する筋力の衰えであります。

このため姿勢を正しくして読書する習慣を身に付けることから始める始末となり、効果自体はまだ何とも・・・であります。一体どんな格好で読んでいたんだ・・・

ということで、まずは、後日異なった感慨を持つようなら訂正することにして・・・いつものように長いので何度でもご訪問ください。なお、いずれも映像化されていますが、未見です。

結論を先に読みたい方は、こちら 。

『永遠のゼロ』 百田尚樹 1956生れ、初出2006年8月、

表紙のタイトルは大まかに上のように大きさを変えて書かれている。なにが大きな「0」と小さな「ゼロ」なのかよく分からぬが『無』から『無限』に広がる主人公の哲学的存在理由ではなく、「零式艦上戦闘機」のことらしい。

0 戦、ゼロ戦、そのものは 運用者が主張するグラフに外挿法で作り込んだ仕様書に副って頂点を極めただけ で、時代はすでにそのグラフの延長線から離れた別の線上で、第一次世界大戦の空戦の戦訓で導かれたランチェスターの法則を実証する戦争に変わっていた。
(とは書いてなかったが、制式採用から4年後のマリアナ沖海戦ではすでに時代遅れになっていたとは書いてある)

にも関わらず使われ方で「永遠の」と形容される技術のシンボルとしていまだに旅客機の開発技術力の惹(き合い)句にまで引っ張り出されている。(あの ! NHKの7時のニュースには思わず笑った。記者も主(ぬし)持ちのサムライだねー、安倍首相の人事はさすが・・・と皮肉ってもおられない)
特定目的に軽量化しバランスを欠いた装備の旅客機って大丈夫 ? と、外国ではセールスの足を引っ張っているのではないかと心配になる当CEOであります

それはさておき、百田氏の主人公の造形は超人的な飛行技能を持ち、その戦闘手法では上官や同僚から臆病者と陰口を言われても特別攻撃批判の信念を公言していた下士官搭乗員が自ら志願するという、東映時代劇の剣豪もののキャラクターからはじまり、任侠路線の理性と情念の不連続点に通じる理不尽な八方塞がりの構図とその後日譚を、「零戦」搭乗員達の戦中、戦後を生存者の証言を通して作者のメッセージで味付けして辿(たど)る筋立てなのだが ・・・

わかる人にはわかる、「総括」ですが、当時の任侠もののスタッフやキャストには戦争帰りやその翳を経験している人が加わっていました。百田氏は言わないだろうけど作劇術として熟知のうえで劇中劇の骨格に仕込んでいる。当CEO のタイムマシン・キャスティングなら宮部を池部良、大石は高倉健、でもこんなに背の高い(重い)飛行兵はいたのかな? 松乃は緋牡丹のお竜になる前の藤純子が・・・。昭和の匂いが出てくるでしょ。
わからない人にはわからない・・・か。

しかし、いまの時代に書く、あるいは読むなら本書でも指摘されている志願(ボランティア)だけで編制されたのではない組織的『特攻』の意味を「情の理」で語った次ぎに、百田氏自身も批判をしている体制側にいた人物を描き、同じ読者に読ませるはずである・・・が、氏にその気はなさそうである。

かれらも日本人であるのだが・・・氏はどのような組織や階級の人物を設定し、どのように否定または肯定をするのかと、当CEOは思うのであります。まあ、ただの悪役A、B・・・だったのかもしれないけれど・・・つまり、今も求められる国家としての必要悪なのかもね)
なお、当CEO はエンタテイメントの世界限定で ! 悪役の(あるいは、だった)俳優さん、女優さんの活躍に声なきエールを送っています
。ドラマの質はこの方たちの登場でほぼ決まっていますからね。

百田氏がエンタテイメント構成作家の「手練(てだ)れ」として業界で賞されているのは当CEOも大いに頷(うなず)けます。

敵艦に突入したものの爆薬は炸裂せず、すべてをもぎ取られて甲板に転がる胴体から取り出された写真の母と子を特定せずに終わらせたところは、読み手の想像力が試されているともいえます。

もちろん百田氏は、重い爆弾と気化した燃料が充満したタンクを抱えながら天才的な操縦技術で、目標とする敵艦隊から離れて前進展開するレーダーで管制された戦闘機群の邀撃と追撃をかわし、近接信管を付けた砲弾を撃ち上げる輪形陣のピケット・ラインをかいくぐり、「0」と共に、あたかもアメフトのランニングバックが100ヤード独走のタッチダウン(敵性スポーツに例えるな ! )を決めたようなスーパー・ヒーローの日本人だったと、ほんの数行で暗示しているのではありますが(映画だとどう描くのか)・・・
偶然(それこそ天佑、神佑とも言いかえられる特別攻撃の本質)で到達した平凡な兵士もいただろう、とも・・・読めるのは見事 ! な手腕です。

はたして本当に主人公だったのか、映像化する脚本家や監督の手腕もまた試されている。

百田氏はかなりの記録や資料を読み込んで構成しているようだけど、戦記ものや手記を夢中になって読んでいた戦後第一次世代の読者には、そのごった煮風の引用とまとめ方に加えて作家としてブレーク後の言動で薄っぺらく、うさん臭く感じてしまうのは否めないようです

参考までに、百田氏のいう作戦指導層ではないが、搭乗員ではない主人公として、知覧の陸軍航空基地を舞台にした特別攻撃機の整備を担当する技術将校が直面する苦悩を描いた『翼に息吹を』 熊谷 達也 1958年生まれ、初出2010年 1 -11月雑誌掲載 があります。氏の別作品での剽窃問題とは別に、資料の読み取りかたをこちら(文庫版あり)の併読で比較するのもおすすめです。どちらにも参考文献のリストが付けられています。

『蜩の記』 葉室麟 1951生れ、初出2010年11月より11年8月雑誌掲載、

はたしてこんな人間が、家族が、当時も今も在るのか (現在の冤罪死刑囚とその家族に普遍する話ではなく、また、現実に今あるとも思えない。あくまでエンターテイメントがベースの作品です) その意味ではこちらもスーパー・ヒーローなのだ、といえる。もちろん周到にそのような視点を選んでいるのですが。

本家と分家の血脈(けちみゃく)の争いが発端のストーリィの決着は、悪人も主人公に接して「人は変わる」といいたいのかもしれないがヒール役を務める城代家老の一人勝ち(ネタバレ御免 ! )である。 (エンタテイメントからノンフィクションのムードにあえて寄せたと言えなくもないけど

それに対抗するために主人公が藩政と仏門の幕藩体制の力学の中に仕掛けた藩誌の副本という文書の地雷も、はたしてそのなかで機能するのか、しても爆発するころには記録自体がどうでもよくなっている(エンターテイメントのカタルシスにもならない)明治時代に変わっているだろう、と言いたくなります。もちろん主人公に向かってではなく作者に・・・ですが。)

ネタバレついでに、血脈の争いといっても家臣たちの暗闘(私闘)のようなもので、記録が正本に残ってもあの城代家老ならそのまま穏便に処理するであろうし、主人公の切腹への沙汰も、当代主君の治政刷新がなければ先代の遺(い)言となる人事や諸策を奉持(ほうじ)することで(封建時代の)家臣団の重鎮、鑑とみなされたでありましょうね。

いっぽうでは、山里に移ろう季節の田畑や木々に清流、日の光と闇、子どもたち、働く娘たち、悪代官に翻弄される農民たちには、作者の感情のこもった視点を身近に感じさせます。白装束に身を包んだ主人公の覚悟の様式美は、映像になるとさらに涙腺を刺激するだろうなと、当CEO も思います。

個々を取り上げれば文庫版の R. キャンベル氏の後書きのひとつひとつに納得できます。しかし、そう素直には読めないな、と思う当CEOであります。

ここまで主人公を完全無謬に書き込むことでエンターテイメントのハードルを高く上げ過ぎている。主人公に並ぶヒール役の城代にも同等の魅力がなければならない。・・・が、そうでもないので、主人公の空回りに見えてくる。そこを狙うことで、読者にとっては空回りとは思えない現代組織の中の個人論と深読みさせる、というよりファンタジーとして読まれているようだ。(ただ、今の世でも余命を知ることになれば老師の言葉はせつないであろうが・・・)

エンタテイメントとしてはいまのところ内匠頭の切腹で終わったみたいなものであり、葉室氏はこの続編にあたる作品も書いてあるようなので それを読んで からの再読をして伏線を辿らねばなりますまい・・・とも考える当CEOであります。

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中間小説と呼ばれる作品は娯楽小説(エンタテイメント・ノベル)と教養小説(ビルドゥングスロマン)のバランスで成り立っている。どちらかに振れ過ぎたりオーバースイングすると幻想小説(ファンタジー・ノベル)になる。それぞれに居場所はあるのだが・・・

ここで上げた二作品は、ともに三人称の語り口だが、歴史の中に仰ぎ見るヒーロー像を作り出す若者の視点で描かれた二重性に作家の世代と読者の世代の間の巧妙かつ奇妙なコラボレーションを感じる、当CEO であります。

執筆時の百田氏は 50歳、葉室氏は 59歳。中間小説も袋小路に入って、こうした手法で若い世代に組織や体制の中での精神的居場所を諭(さと)し、故児玉清氏や直木賞の選者も含む同年代が共感、共鳴する時代になったのか、とビミョーに感慨深いものを感じる当CEOでもあります。

死者が生者のときに残した言葉や文字にどこまでの真実があるのか。『死者を語るは生者のみ』、後世、「時代をへた記録や記憶は読み手、語り手によって正誤に関わりなくどちらにも解釈や再生ができるという永遠の現実(真実なんておこがましい)」がおかしな方向に向かわねばいいのだけれど・・・
ニヒリズムに寄っていることは承知していますけど、単なるシニシズムですかね ? 下をよめばそうかも・・・ね)

こうした対語のフレーズでは、『天の声』が『人に語らせる』ってコラムは大学や高校の入学試験に使われ、それで落っこちた受験生にとっては腹話術みたいな、『人が語って天の声となる』と、逆転しているもんね。

ちなみに未読だけど「永遠の0」には同年代の著者によるパロディがある。
『永遠のエロ』 睦月影郎 1956年生まれ、初出2014年。 
ゼロ戦に、白い雲、青い空、そして 紺のタイト・スカートから白いブラウスの裾を出し前ボタンを1つ残して外した立姿で、ちょっと年上(当CEO より、じゃありませんよ) のお姉さんを配したカバー絵の文庫本です。全くのエンタテイメント(エロ・グロ・ナンセンス)が意味を持つ時代が周ってきたのかもしれません。えっ、「こんなのはいつの時代にもある」・・・ソデス。ま、山道を歩いていると平らじゃないのに登っているのか下っているのかわからない風景に出合うこともある。時代の分水嶺はあとになって分かるもんです。

当CEOはといえば、最近はビルドゥングス・ロマンに寄った作品を読むより、カール・ハイアセンなどの海外のジュブナイル・フィクションを読むほうが楽しいのだけど、いまだに未熟なだけなのかも

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  「ところでCEOよ ! 」、「主題だった新しいメガネには慣れたのかね ! 」 ・・・ですか ? それが・・・

『読書眼鏡』の英訳( Reading Glasses )を、辞書で日本語に戻したところ『老眼鏡』となってました
(したがい、上の書評は眼鏡を替えても、ひねくれ老人の世迷いごと、のままですか

けれど、この伝統的、保守的な形状のメガネは気に入っています。指一本でブリッジをあやつって簡単に鼻眼鏡にしたり定位置に戻したりできます。

題名は忘れたけれどヘンリー・フォンダが眼鏡越しに見上げる視線はけっして「上目使い」ではありません。眼鏡一つで老人の演技が決まるようです。

とても及びませんので、ピエトロ・ジェルミがモノクロームの映画だった「刑事」のラストシーンで心の奥を押し隠すようにかける色付眼鏡も欲しくなった(何色だったんだろう ? グレーか、ブラウンか) ! ・・・と、どこまでもミーハーな当CEOであります。

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