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2015年3月18日 (水)

『心情リベラルの戦争論を考える』 (『理』の巻)

(承前)つぎに『』を考えます。

基本は、『』、『』、『』という概念に支えられた個人の『』の思考から始まるのだろう。(中には「天のお告げ」なんてのもあるようですが)

これが必要条件であり、十分条件として複数の、しかも多くの人間が、受け入れる、納得する、あるいは、従う、という『理屈』である。

ただ、印欧語圏では『』の三つの概念の頂点には宗教の教義にまつわる『』という概念がある。

しかし日本でははっきりしていない。「聖」は「徳太子」に使われたり、「ひじり」と読まれたり、「ご断」などもあった。いずれにしても中国から漢字が渡来したあとで宗教的な要素より人格的もしくは権威的な要素が強いようだ。

西洋の『』は『』から離脱する葛藤の進展 と 『』から離脱したあとの混迷と言えるようだ。

これについては、深く述べず、「哲学」から考えるテクストを挙げておきます。

西洋近代を問い直す」 佐伯啓思 PHP文庫 (2014)

Seiyoukindaiこの本は、山奥と都会の中間で「悠々閑々」を良しとせず、時には「多事多端」を「悠々自適」に過ごす(うらやましい)同年輩の知人から直接紹介をいただきました。

当CEOはここに出てくる哲学書を読んだことも、齧ったことすらなく、いくつかを要約で読んだ記憶がうっすらとある程度ですから読後感はバイアスにバイアスを重ねていますが、ほとんど納得できる内容でした

(バイアス: 基準となる点または線を偶然または意図的に変えた片寄り。したがい、ここでは偏見の意)

著者は東大、西部邁氏門下なのでコンサバティヴのお一人のようだが京大教授としての講義録の文庫化です。
ただ、それぞれの講義冒頭での前振りや当CEOが乱発する「閑話休題」のような中ダレ・キャッチは省いている建前論のような気がするのですが・・・(閑話休題)

その面でもリベラルを自認する方々は一読の価値あり。

』には「科学」と称されるものもある。
ただし、日本では『』のなかの「工学」を頂点とする「実学」の分野を「科学」と称することが多い。

「科学」は真理を追究する・・・といわれているが「『』の科学」がそのままで実用になることはない。

たとえば飛行機が飛ぶ揚力にしても基本はニュートン力学の第二法則(F = mα)と第三法則(作用と反作用)であるが実際には役に立たず、気体は圧縮も粘性も慣性もない理想流体として循環流という仮想の流れを導入することで計算可能な揚力の式が導かれている。

つまり「科学」のおおくは「真理」ではなく、このような「当たらずと言えども遠からず」を「(手前味噌の)安全率」でカバーする「実(用)学」なのですね。

思うに科学の真理は数式的な『』と深く結びついているようだ。たとえばアインシュタインの特殊相対性理論の E = mc2 の式を思い出すが、さらに真理を求めると一般相対性理論となって補正項がいっぱい付きだし、その式自体が美しいかどうかは当CEOには判断をつけかねる。(電子や磁気がかかわる現象へのニュートン力学の応用で発生する矛盾を補正するのがアインシュタインらの相対性理論となる)

アインシュタインの理論もニュートンの第一法則である「エネルギー保存則」と「光速は不変」の仮説から始まっている。数年前に測定の誤りとされたが光速より速いニュートリノの移動が話題となった。いずれにせよ科学の「真理」は工学で作られた測定器で証明されている。したがい、測定器が進歩すると・・・といっては科学者に失礼か。

また、それぞれの宗教の教義に伴われた『』もある。抗争や戦争の開始や継続が宗教の教義にもとづくことがどの時代にもある。(後述予定)

さて、先に紹介した「西洋哲学」のテクストは、日本(人)が、西洋さらにはアメリカの『』の中に安住していていいのか、との問いかけでもある。

では日本の『』が世界で通用するか、については読者に委ねられている。(つまりはどちらも袋小路にいるニヒリズムの時代ということか)

「哲学」は人間どもが右往左往している状態を整理しようという「社会学」ともいえる。したがい歴史の検証が必要である。ピケティの「富は富を呼ぶ」の理屈は現象としては自明であるが歴史の中で論考したことがすごい。政治技術論での反論も多いがこれからも歴史の中で検証される「哲学」と評価できる。(閑話休題)

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』と『』の頂点に立ち文明の中心となるべき『』を一言でいえば、地球上に同一時期に同一の『』などないといえるようだ。また個人または集団の『』は本当に『』なのか・・・という根本的な疑念も伴っています。

いやそれよりもっと大切な『』だってある。たとえば「人を殺すな!」とかの「『』の『』」である「倫理」はどうした、と指摘されると思います。

その通りですが、『』の一つである「法」には「正当防衛の殺人」、「心神喪失の殺人」は罪を問わない、と人間には殺人を犯す場合があることを認めています。

本稿は殺人を伴う戦争を考えていますから「倫理」はさて置いて、次回は『』を考えますが簡単に済ませる予定です。

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