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2015年3月23日 (月)

『心情リベラルの戦争論を考える』 (『知、情、理の巻』をいったん「了」。続いて『文明の巻』)

(承前)『の巻』補追

』は個人の内にとどまれば「自由」であるが『表現』や『行動』が伴なわれると厄介だ。とはいえ『』や『』の探求に対する「意欲」と、その前提となる「日々の動物としての行動意欲」に直結する。

これらの「意欲」に対してはマインドコントロールが行われる。何の問題ももなく行動できておれば「習慣」であるが、意識して自分でやれば「自己啓発」、他人を介せば「カウンセリング」、悪意をもって行われれば「洗脳」となる。

ただし「洗脳」は本人が悪意に気づかないで「自己啓発」のなかで行われることもある。といっても、なにが悪意か、は本人しだい、社会しだいの面はある。

社会が個人の『』に対して行う最大の干渉には「ロボトミー」がある。具体例はおくが映画では「カッコーの巣の上で “One Flew Over the Cuckoo's Nest” (1975)」や「時計仕掛けのオレンジ “A Clockwork Orange”(1971)」(ロボトミーではないがそれ以上の効果を得られる想定の生化学的治療法を扱っている) などの作品がある。 

3 回続けた『知、情、理の巻』はいったん「了」。続いて・・・

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文明の巻』

さて『』はもっとも扱いにくい。

山路を登りながら(漱石先生は)、こう考えた。
』に働けば角が立つ。『』に棹させば流される。意地(『』)を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
(「草枕(1906)」冒頭より、『 』や( )内、は当CEOが強調や追加をおこなった。)

なお、『』は「慧」、『』は「識」として、一応『』を使う行為を『』と、使い分けることにします。ただ、漱石先生の時代にそんな使い分けがあったかどうかは知りません。

これまで数回にわたって模索したように『』も『』も唯一無二の存在ではなく個人の解釈や思い込みで成立している。ましてや世界の全員が同じ『』や『』を理解し、共有しているわけではない。

漱石先生の考える通りに、人との間で解釈や思い込みが相克する個人の葛藤は『』になって流されるのである。

』に関わる最大の問題は当のご本人が流されていることに気がつかないことなのだ。集団になると『』の集約が集団の性格を決める。

こうなると「流されている」ことに気がついても「流れに乗らなきゃ!」という、「こうしたほうがいい『』」なのか、「こうすべき『』」なのか、たぶん、「こうしておけば安心できるのだ」という『』なのだろう、と思える状態になる。

つまりは『文明』は個人を人間足らしめている『』『』『』の三要素の集合体といえる。
いいかえれば集団の『』が『』と『』を集約した結果が『文明』であるといえる。『』と『』は『』の手段となる。

けっきょく、『文明』のなかの『』も唯一無二ではないのだろう。

文明』が抗争を戦争に格上げ(格下げか?)し、戦争の帰趨を決める。(一応戦争論だからね)

(つづく)

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