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2017年5月の1件の記事

2017年5月31日 (水)

キネマ航空 CEO 「水底の歌-柿本人麻論」からいにしえ(古)をおもふ・・・ついでに「やすらぎの郷」を考える

人生の一時期に多少の時間の余裕ができ新しい知人との交流が始まるのは二つとない幸運である。

当CEO が住む町中から峠を二つ三つ超えた、住むにはそれなりの苦労はあるのだろうが桃源の地にその一人の篤学の士が住まわれる。

ほぼ三か月前に士から特に説明もなく微笑みながら渡された本をやっと読み終えた。

Song_of_water_bottom_1 Song_of_water_bottom_2梅原猛の「水底の歌-柿本人麻論」上下で900ページ弱の文庫である。初出のハード・カバーは1973年であるから当CEO は社会人となっていた。

当時の書評欄では、正確な記憶ではないが内容の要約と、ジェット・コースターのような論文である、といったようなものであったが未読のままである。

新目(あらため ?)て読む機会を与えていただいた論文(梅原氏自身が文中にそう書いている)が文学系出版社の文庫本になるということは?と思いながら読み始める。

篤学の士が黙って渡してくれた理由とはまったく異なるのだろうが・・・これが意外と今現在の世の中を映し日本が返るべき姿を示唆しているように思えてくる。

論文の内容は万葉集の歌人柿本人麻(呂)の「人物」論というより「存在」のプロファイリングである。勿論インタビューはできないから書誌学もしくは文献学と呼ばれる手法が使われる。

対象は手書きであり検証するための比較対象も時の数寄者に再編纂、再編集された異本や国学者の解釈の手書きが残るのみであり通覧すべき一群の原本も散逸されている。また写本が原本と同じどうかの検証も困難な場合が多い

さて、梅原氏は、認知度では大勢を占める(エスタブリッシュメント側の人物)斎藤茂吉、賀茂真淵といった先人による解釈ばかりか、もはや反論できないご本人たちに容赦のない攻撃を加える文体で始まる。

そのあとは、彼らが引用したり無視したりの書誌文献に加えて伝説、伝承を駆使して解釈を改めて原本に戻り推論を立てる。「だろう」から始まり「と思える」、「考える」を経て「違いない」と畳みかける。元は雑誌の連載のようでこのパターンが主題を変え相手を変え文献を変えて延々と繰り返される。

そのうち漢文、古文、万葉仮名など難解な個所を読み飛ばすコツを体得すればまさに悪酔いと快感のジェット・コースターの気分になれることを請け合います。

科学、特に工学と重ねると書誌学による結論の真偽を判定することは極めて難しい。その工学にしても想定外も想定を間違った想定の内となることが証明できるはずであるがなぜかこの国では行われない。

さて、当CEO がこの本でおもひを致したのは論文として示された結論よりも論考の背景となる真の闇があった時代であります。

この本でも「怨霊」の「祟り」と「鎮魂」が幾度か繰り返されます。

思ふに「祟り」は祟られる側(一般に勝者もしくはエスタブリッシュメント側)の受け身の言葉でこれが息づいていた時代であります。

では、敗者または否エスタブリッシュメントの弱者側の言葉では、となると積極性のある「呪い」となるがこの本では出てこなかったと思う。

記紀に絡めとられた弱者には「呪い」さえ認められていなかったのかもしれない。

いや記紀を統べる強者の階層はあまたある「神」をも含めた同じ階層の「祟り」は認めても真の弱者の「呪い」など、はなからないものとしていたの「だろう」。

西洋思想に対抗する「現代の」日本思想の復権は「大和魂」、でもなく、ましてや「武士道」でもない。なかんづく、「呪い」の復権である「と思える」。

倉本聰氏の最新作「やすらぎの郷」を参照しよう。

TV局の社員以外でTV界に貢献した者だけが入れる無料老人ホームの中の有料のバーで・・・

恒例の誕生パーティの参加者が同じ入居者の二人だけとなり中止したら古くからの付き合いのあったホテルから高額のキャンセル料を請求される。

しかし、当てにしていたご祝儀がなくなり払えなくなった自分に落ち込む人気女優だったお嬢(こと浅丘ルリ子)と、慰めているのか呆れているのか、気は合うが口の悪い個性派女優だったマヤ(こと加賀まりこ)。

もう一人の参加予定者、伝説の女優で最長老の姫(こと八千草薫)が嘆くお嬢に「私だって人を呪いたくなることはあったの。これは実際に効果があったのよ」と「ナスの呪い揚げ」の儀式を伝授する。(・・・場所は変わって姫のコテージへ)

タスキ掛けにスッ、スッ、スッ・・・スッ、と皮に刃を入れた長ナスのへたをスパッと切り落しそこに割りばしの先を鋭くとがらせた串を呪いを掛ける相手の名前を叫びながらブチューッと刺し、チンチンと煮たぎる油の鍋に突っ込むのである。ジューッ、グツグツ・・・グツグツ・・・

     よい子の皆さーん ! 「人を呪わば(うなら、相手と自分の墓)(を)二つ(用意してから)」という、教えもあるよ。祟られる側から先手必勝で「呪い返し」もあるぞ、と人を使って仕掛けてくる予告ともいえそうだけど。
     一方、書誌学になぞらえれば語源は仏教かららしい。仏教にも似た加持祈祷の儀式があるがこれは「祈り」であり断じて「呪い」ではなーい!という新興(密教)仏教の古来(エスタブリッシュメント)神道に対する挑戦である、なーんて。
      これらに関連する書誌は自分で探してね。書誌学は些細な想像から始まります。
(閑話は休題)

さて、384人を揚げるつもりのお嬢は、「揚げたら全部食べるのよ」と姫に言われて30人に絞ったものの「とても食べられない」と弱音を吐く。しかし、姫は「一口でいいわよ」といたって柔軟である。(追記:指定のタレは生姜醤油。姫は山葵でも辛子でも柚子でも良いと言うと思う。山椒の振掛けも旨そうだ)

シャーマニズム的な儀式だから、日の巡り、月の満ち欠けの暦も関係するようだが姫は細かいことは気にしない。適当に選んだその当日の丑三つ時になってにぎやかに始まる・・・

ところが翌朝のニュースで30人の中の一人が路上で亡くなったと報道される。時間を再現すると叫んだ時間に重なる。さすがにうろたえるお嬢とマヤと参加した男たち。

しかし、姫は「偶然!そんなことが現実に起こるわけはない!」と毅然として言い放つ。

どうです、交渉では勝てない日本の外務省は秘密の「呪い処」を作るのです。言い負かされたり手ごわい相手の名前(ボクネンジーンとかトンナンチーペーとかDDTとかハナカーラ・チョーチンとかスパッと一発キンチョールンとかムーンウォーキンとか)を入れて叫ぶのです。スッスッ、スパッ、何某ーッ、ブチューッ ! チンチン、ジューッ、グツグツ・・・

相手には見せぬ手の内の儀式を伴った日本の文化的交渉術です。「呪い」が「祟り」になっても西洋文明では「そんなことが現実に起こるわけはない!」のであります。ん?? 東洋人にこの理屈は通らないか?もう、やっているかも・・・。同じ東洋文明だもんね。

昔の日本に戻れ!」と叫ぶ声は「明治維新に戻れ!」と等価のようです。冷静に歴史を見れば「西洋の衣を新調した明治維新」は大正時代を超えて昭和の太平洋戦争の敗北で終わるのですがこれを繰り返すのはいかがなものか。

東洋に限らず大体の政権の施政手段は梅原猛氏の描いた時代と重なる。さすがに今の日本では死を求めることはないだろうが人格攻撃で生きた屍とし文書も言葉も調査する前にすべてなかったことにする。

こうした人事や施政を繰り返していると敗戦を終戦と言いかえる「西洋のシステムの衣を纏わされた日本の心」を抱えた権力は、ないはずの「祟り」が怖くなるの「だろう」。もっとないはずの「呪い」の「共謀」のほうが、もっともっと怖い「と思える」、いや「考える」。そうに「違いない」!

繰り返す歴史の中で、たった十七音を「呪い=祟り」として共謀をでっちあげるような京大俳句事件も再現されるかもしれない。

そうならないように日本精神を謳う国家はまず(もちろん限界は必要だが)呪い」の自由化を立法すべきである。そして「呪い」は「祟り」ではない。「祟り」は「祟り」として「己から始まる」ものとして正しく受け止められる国家であれ!政治家であれ!官僚であれ!

あるべきだ!うーっ・うっ・うっ・・・「今は明るい闇の世だ」、「鶴田浩二だ」、「『傷だらけの人生(YouTube)』だ」!歌詞 はこちら

はぁぁ----------------------------------- (しばしの沈黙)

ん!なんのブログだったっけ!?

ああ、書評だったことを忘れていた。(推理小説あるいは二時間サスペンスのあら捜しに慣れておれば構成自体が何となく怪しげに感じられる)この書(論文)は少なくとも論理の書というより感覚を刺激する書であります。梅原猛氏が歌舞伎の台本をいくつも創作されたことはむべなるかな、であります。

論文としての証明展開に自家撞着があるという具体的な指摘内容(クエッション・アンド・コントリビューション)に対して梅原氏からは開き直りに近い「論点ずらし」で終わらせたままで版を重ねている・・・

梅原氏も弱点として認めることになるミッシング・リングを創出できれば歴史エンタテイメント小説の原案としては面白いのだが、氏がこの「論文」で後年の文化勲章への一里塚に立ったことでは、論争相手を国文学者で知名度のある益田勝実氏 一人に絞った手法など哲学者として弁証法を熟知した氏が「書誌学上の破たん」 を承知した上での意図的なライフワーク・シナリオの一部だったのかもしれない。

論争資料
(1)(2)(3) 。梅原氏が相手にしなかった例は こちら 。梅原説支持論は こちら 。
本体よりこれらのインテリの喧嘩のほうが面白い。梅原氏はなかなかの喧嘩、いや論争上手であります。

) 「書誌学上の破たん」: 歴史を含む書誌学、文献学では客観的な「真実」などはなく、どのみち「新説」から始まる「通説」ないしは「定説」しかないこと。なお、当CEO は主観的な「真実」は別の問題であると考えています。
   
もちろん「破たん」は、「科学」、特に「利便」とともに身近に「実害」を伴う「工学」でもいえることではあります。ある条件付きの「定説(理論)」を「真実」としながら「想定外」、「未曾有」の言葉の担保で「実害」を「確率」の範囲の内、外、として既定の「真実」をカバー(蔽おうと)する人類の知恵といえないことはないのですが・・・。

書誌学がベースの歴史エンタテイメント小説の草分けとしては英国のジョセフィン・ティによる「時の娘 The Daughter of Time (1957)」があります。小説としてはこちらの方がすっきりとした構成であります。英国の歴史に興味がなくても、こちらも読むべし!

こちらも併せて再読することで篤学の士からは歴史の見方を改めて思い出させていただいたようだ。感謝。

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