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2017年8月の2件の記事

2017年8月14日 (月)

キネマ航空CEO 梅原猛の原点に挑むが・・・横溝正史の作品に思いをはせるの巻

 古代史の先達から先回の論文『水底の歌-柿本人麻呂論 (初出1973)』に続いて梅原猛氏の原点となる「『 (上、下)』 1980 集英社文庫」を貸していただいた

___2初出は1970.1 から 1971.12にかけて芸術新潮に24回連載された「エッセイ」をそのまままとめた作品であります。(同名単行本 1975 集英社)

この連載から深化した作品が「『隠された十字架  法隆寺論』 1972 新潮社」となるようですが当CEO は未読。

 さて、本書は古代日本仏教の勃興史であります。

水底・』のような言語上の思考ではなく、塔、仏像、壁画、寺、神社、奉納歌舞などの具象を分析した芸術論的古代史論である

 しかし、これでは、そんなに読みたくなる「帯」(腰巻きとも言う)にはならない。むしろ、・・・

聖徳太子」の血脈の抹殺に始まる太子の祟りを縦糸に、
新興仏教と古来神道との狭間に勃発した人間の欲望の覇権争いを横糸に、
兄弟間譲位と女性天皇の擁立が織りなす時代の皇室をめぐる姻戚と相関の(性的関係を含めた)関係を解き明かし現代につづく、
水底・』に先行した壮大な 論文 ! ではなく エッセイ ! ! です

・・・であります。さて、下巻の巻末に西暦239年から1697年までの1559年間に及ぶ年表がありますが実質は、次の200年を掛けた国家仏教から仏教国家への萌芽完成まで、の足かけ3世紀です。(その仏教国家完成から崩壊までには1100年が必要でした・・・とは書いてないけど)

552(538説もあり) 仏教(仏像、経論の)公式伝来
574 厩戸皇子(うまやどのみこ)のちの聖徳太子生まれる
585 2月蘇我馬子仏塔を立て斎会を説く
      3月物部守屋中臣勝海ら仏像仏殿を焼く
587 聖徳太子(没後の尊称だが便宜上)四天王寺建立の発願、馬子法興寺建立発願
591 法興寺起工
593 聖徳太子摂政となる。四天王寺起工
622 2月聖徳太子薨ず
643 11月蘇我入鹿聖徳太子の子山背大兄王(やましろのおおえのかみ)一族の殺害
      参画氏族の中に中臣塩屋連牧夫(なかとみのしおやのむらじまきふ)
      のちの藤原氏の始祖
645 6月乙巳の変蘇我氏滅亡、「大化の改新」
 ・
 ・
712 古事記成る
720 日本書紀成る
737 藤原氏四兄弟相次いで天然痘で死去
739 (別資料では737)聖徳太子一族の住居址に救世観音像を安置する夢殿建つ
743 大仏建立発願
752 大仏開眼供養
(なお、表示の月は太陽歴なのか陰暦なのか当時の中国暦なのかは不明です。)

 この間、 562年に半島では任那の日本府が新羅に滅ぼされ589年大陸では隋王朝の成立600年遣隋使の初回派遣603年新羅への征討出兵中止618年隋に代わり唐王朝の成立630年遣唐使初回派遣663年半島の白村江で唐・新羅連合軍に敗北668年唐・新羅により高句麗滅亡、新羅による半島の統一・・・。

     と対外関係も忙しい時代で、公の遣隋・遣唐使に加えて技能難民や労働力難民の流入、帰化人による技術、芸術など大陸文化の系統的な吸収ができた時代でもあったようです。(大化改新後に防人(さきもり)などの九州沿岸への徴兵動員がおこなわれた。それ以前の半島進出については倭(やまと)朝廷が長(おさ)を派遣する在外組織なのか両岸の部族間の関係なのかは判然としないが物資や文化の交易をおこなう倭朝廷寄りの部族の保護のようだ)

     幸いに後半の100年弱は半島からの撤収に加えて大陸情勢も唐王朝が安定しており、半島の新羅との両睨みの北九州海岸線防衛ラインの構築の中で奈良文化も大陸的から日本的なものへの咀嚼が落ち着いて行えた時代と思われます。(この時代に記紀が成り、万葉集の編纂が始まる。先の(任那)「日本府」の固有名詞は日本書紀にて初出。いくつかの暗殺や武力抗争があった。658から660年にかけて東北の蝦夷などの部族への侵攻が始まる。決着は平安遷都後の、坂上田村麻呂、阿弖流為(あてるい)伝説に・・・)

     内政は、といえば、国家統治の規範を仏教に置こうとする有力氏族蘇我氏と皇位継承血脈にいる皇族である聖徳太子の仏教推進派と対立する他の皇族を擁したその他大勢派の氏族との政争を制した聖徳太子没後の天皇の座をめぐる抗争で、中臣氏はまず、かつての親の代では同盟関係であった蘇我馬子の子入鹿太子の子である山背大兄王の離反を図り聖徳太子の(いわゆる皇統の)血脈を断絶させ、その2年後の大化改新に先立つ乙巳の変入鹿らを殺害して太子以前の時代からの旧勢力の筆頭だった蘇我氏の権勢を一気に没落させます。

 年表の585年を確認ください。中臣藤原)氏のこころの内に分け入ると、氏族間の憎悪なのか義憤なのか、対象は仏教なのか政(まつりごと)なのかよくわからぬが(権益であることは間違いない)長年の諜略と一瞬の暗殺で政権の奪取に成功した時代でもあったのであります。

おおっ!梅原師見てきたように語り出し・・・がのり移ってきたゾ

 そして、藤原氏はその後の後宮との姻戚関係、不遜不倫関係を巧み(といっても蘇我氏だってやっていた)に構築し政(まつりごと)を手中に収めるのですが、その中で一族を襲った不幸を、殺したわけでもない(殺したんじゃないのかな ? 説もある )聖徳太子の「祟り」として仏教を利用した鎮めをするために西洋にはない日本美学』の建立を続けた・・・という論旨の展開と読めました。

 ただ直近では、協力したのちに殺された蘇我入鹿も恨んでいるはずなのだけどね・・・でも黒幕中臣氏聖徳太子を含めて山背大兄王一族の殺害“実行者”に対しておこなった口封じを兼ねた直接実行氏族への復讐の処罰だったら『祟り』はないよねー・・・と数代下がった子孫の藤原氏になっても感じられるということのようです。

 「祟り」も、「祟る」側と「祟られる」側の地位身分、あるいは人望の相対関係で「祟られる」側の勝者としての感じ方次第なのでしょーね。これぞ日本 ! ?

 梅原説はさらには塔の内部に施された壁画、仏像の装飾がおどろおどろしい世界を再現してくれます。さすがに地霊、怨霊には敵わないらしく年表の続きとしておまけの42年で
 ・
 ・
(783 万葉集の編纂終わる。開始年不明、600年代後半)
(794 平安京遷都)
   ・・・と(正確には難波宮などを含み)呪いや祟りで転々とした都の総称としての奈良盆地から長岡京を経て地形の似た平安京への恒久避難となったのでしょうね。藤原氏はこれから400年近く政権の中枢に留まります。この間の祟りはどうなったのかは当CEO 浅学につき分かりません。

 さて今回は形ある物体からの梅原氏の思考の展開ですが具体的なこの時代の『』の建設となると為政者ひいては施工者の思惑がどこまで反映できるのかはよくわからない。

 少なくとも、切妻、寄棟、高床といった旧来工法では、施工者がこれくらいの大きさでといえば棟梁の差配に従って材木の調達から現場での加工組立ができる。

しかし、この時代に始まった大陸起源の複雑な仏教建築となると工程の分化が必須となる。

 外観内観の意匠と構造決定の工程はおそらく同時並行で行われ、そこから個々の構造部品を作るには多くの部品図面や指図書に起こす設計集団が必要となる。

 加えて部品の加工、組立の人工と工数とその工程順序の管理といった施工集団が存在する。この二つの集団は運搬労働力を除き多分一体の集団であったと思われる。この中に渡来人の集団と旧来(倭)工法の集団があったはずだがそのあたりははっきりしない。
余談ながら木材の伐採、輸送、集積、仮加工、寝かし(エイジング)といった木材ビジネスもこの時代に生まれたんだろうな。

 もちろん建築全体を構成する木工や石工のほかに木彫、金物といった現在では装飾品と分類される技能集団も独立して存在していたのだろう。

 この時代の「」が梅原氏や多くの有名無名の人々のこころをとらえるその『』は『外観内観の構造の意匠』で決められているのであり、施工主となる中臣・藤原氏の意識に外観内観の細部に対する梅原説が提示する意図がそのままに入っているかには疑問がある。

 そのため梅原氏は高さとして指示できる「」に着目したのだろう。しかし、これだけで梅原氏の施工者意志説で提示された細部の意匠(具象)の証明になるのかどうか。

 もちろん細部の具象コンセプトについてもまだ発見されない文書や絵で詳細な中臣・藤原コンセプトの要求が行われたのかもしれないが、その再現のすべては構造で決まる。

 むしろその時々の塔建築を請け負う集団がその時々の工夫を凝らして無二の「」を設計し、建て上げて、施工主が気に入らなければ壊されついでに殺されて、といったところではなかろうか。たぶん彼らの身分では施工主を祟ることもないだろう。

 施工主は気に入れば内装に金を掛けて己の世界の構築はできる。またその意向も建築よりは伝わりやすいかもしれない。梅原氏の筆はここでは怪談めいた鬼気迫る筆致で畳みかける。

 737年以降に法隆寺夢殿に封印されたという聖徳太子を写したとされる救世観音菩薩(木造観音菩薩立像)は、正面のみの空洞(要するに最中の皮の表側の片割れ)で動き回るための足もなく、御仏を示す光背は釘で直接頭部に打ちつけられて「人間でなく怨霊」の聖徳太子を呪詛する目的である、と。

 怨霊も足で移動するのか ? 足をなくすれば出る場所が決まっている(はずの)地縛霊に貶めたのか・・・この説では時代考証の錯誤感もあるけど新説にはなりそう。

 さらに浅学のCEO ではあるが、釘打ちの呪詛は『生きている相手』を模した藁人形や人型に打ち込まれ、イエス・キリストも生きているうちに釘で十字架に磔にされた。ドラキュラ伯爵は呼吸していないようだが眠っているところに釘の代わりに杭を打ち込まれているんじゃなかったっけ。そもそも既に死した者の怨霊に「釘」の効果があるのかね・・・となる。

 光背と頭部を結ぶ構造も釘の形状も説明されていない。どんな釘なんだ?むしろ光背と観音像をつなぎ一体となる構造の意味もある・・・観音像を動かしたら光背がとり残されて御仏の慈愛が消えちゃったってこともあるんじゃないか・・・

 まあ、呪詛の方法の諮問を受けた取り巻き文化人のブレーンが困り果てて出した案を、藤原氏には「やってみる」ことは「やってやる」と進取の勇気があるのでやってみた。

 しかし、ご利益がないもんで白布にまかれて人目を避けて隠ぺい放置されていた・・・と、梅原説につながるのかもしれないが・・・、

 肝心の観音像を包んだ白布の汚れや埃を含めた科学的分析はなされていない。梅原氏は西欧の「聖骸布」のようにあからさまにはしない。これもまた日本、なのかもね。

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 こうした呪詛は怨霊の祟りに対する女性の恐怖心が深くかかわっていると梅原説では強調される。

 どうやって祟りから呪詛への過程が進むのだろう。そもそも100年近く後の女性が祟りの言われをどのように知るのだろう。記紀を奉ずる公家、神職からか、かじった僧侶からか・・・
神仏習合と反発もこの時代から延々と始まった。そして、明治元年(1872)の神仏判然令で公式に神仏分離とされて、仏教《が特に庶諸民に対して権威もしくは拘束力を持った》国家の末期期に入った/閑話休題)

 予算が必要な呪詛建築の施工には男性の分担と考えられるのだが、下品な当CEO はさらに考える。こうした謀(はかりごと)の発端はどこで行われたのだろう。

 昼なのか夜なのか、広間か寝室か、家政婦は見たのか、宮中や公家の屋敷の間取りや奉公人の数は、上下の食糧献立事情は、人口や職業、都市や村の構成や経済は、行政機関の構成は、租税の徴収は、予算の案や執行は、芸術家集団の存在は、といった時代背景があってこその梅原説と思うのだが古代史の背景解明に梅原氏は古代史の著作の印税を使って影の貢献をされたのであろうな ・・・と、つい余計なお世話を思ってしまう。

 せめて「」を一基建てる費用の収支出納ぐらいは氏の下で解明してほしいものです。ただ働きで古代日本の文化を作るのが日本人なのか ? 帰化人もよく我慢したものだなー。

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 さて、描かれる「家系図」と「時系列人物行動表」とくるとこれらを駆使した横溝正史の名探偵金田一耕助を思い浮かべる当CEO であります。《迷》探偵のようでもありますが人間の始めた行為を押しとどめることもなく最後まで見届ける仏のまなざしのようでもあります。

 「犬神家の一族」では戦後の財閥解体、「悪魔が来りて笛を吹く」では華族制度の崩壊、「獄門島」や「八つ墓村」、「悪魔の手毬歌」では村社会の戦後史とも家族史とも、戦前が背景となる「本陣殺人事件」では格式のある家族の中の男尊女卑に潜む屈曲した潔癖倫理など、当CEO の世代にはフィクションでそれぞれの時代を映し出していると感じられる。しかし、残念なことに今では「オワった コンてんつ」と片づけられるのだろう。

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 繰り返すが梅原説はなまじ学際的なアカデミズムをまとっているだけに個々別々の分野の古代史を総合した中での再評価が必要と思われる。 梅原説の解説本が待たれます。

 まあ、当CEO も多感なころに梅原説に接しておれば古代史の迷路に紛れ込もうとしたかもしれない梅原氏の情熱は強く感じますが、今が当CEO にとっての読み時と思えます。

 『聖徳太子の祟り』と『藤原氏の呪詛』の相克が日本国の骨格形のない精神をつくり、時代時代の肉付けがされてきたという梅原説を否定するつもりは更々ない。

 が、先に挙げた二点の論考の視点であり始点となる美学的解釈部分を外すとエッセイ自体は『一般人読者が感じる権威感(パンピー・アカデミズム)』は消える。

 特に後者の具象の説明自体は資料読み解きの誤解であると、専門分野からは否定されているようだ。しかし、梅原氏はこのエッセイや関連著作での修正もしくは注記の付与をされるつもりはない(完全黙秘の)ようです。

 そして今なぜ、この本が当CEO の手元に現われたのか、と考えると、

『前振りの間違いぐらいで挫折するな!』
『間違った前振りで提起した論旨の先の真実が必ず出現して過去の前振りをかすませる!!』・・・
日本人論的精神論のなかでは「初志貫徹」 >>かなり大なり君子豹変」の価値感の間で振れる一つの解を日本人らしく行動で示してくれているのかも知れぬ・・・なー。

 と、思いながらも当CEO は若き日、日本国自体を含めた若き時代の心情的リベラリズムの限界をプチ豹変させる模索をしている最中です。

 紹介してくださった先達さんありがとうございます。これからもご指導よろしくお願いいたします。

2017年8月 6日 (日)

キネマ航空CEO GTF はターボ・ファン・ジェットかダクテッド・ターボ・プロップか、を考えるの巻(その 5 の 1 )「ファンの奥は深いのか ? 」

おことわり

冷房のない部屋で書いています。校正と校閲の不完全で後日訂正があるかもしれませんがとりあえず公開します。ご指摘をいただければ優先的に対処いたします・・・暑い !

ファンの外観は先々回 2017/7/19 の当オフィスの記事で ボーイング 747 の初期と現在のエンジンの写真とカッタウェイ図で並べている。ほかにないかと探していたらエアバス A350 XWB に採用されている ロールス・ロイス トレント XWB 84k を分析した次のサイトを見つけた。

参考)  ロールス・ロイス トレント XWB 84k とは、

Rollstrentxwb
      画像は https://3dprint.com/45820/rolls-royce-largest-3d-printed/ より。
      左画像の
手前が エアバス A350XWB-1000。このほかに 900 , 800 が設定され、それぞれに RR Torrent XRB 97k , 84k , 75k - 79k が対応する。なお -800 の計画は中止された。
      
型番の k は離昇推力の単位 1000lbf。ファン直径 3m、 ブレード枚数 22、バイパス比 9.6 : 1。
      A350XWBeXtra Wide Body のイメージ・キャッチだがエンジンでは同機専用ということ。

さて、今回の本題の参考にしたサイトは、

LEEHAM NEWS AND COMMENT に連載された、Bjorn's corner; Turbofan engine challenges; Part  2 
     このコーナーでは Part 1 ~7 で、当CEO が意識して避けている新しい燃焼技術についても突っ込んで解説している。英文だが技術用語を頼りにぜひご一読を!

同記事から借用した左下図は、 トレント XWB 84k (2010)を含む ロールス・ロイス トレント 600 (1988)から始まる トレント シリーズ の基礎となった RB211 (1969)のファンとブレードの変遷であります。

まず、左右に分割合成された画像のエンジンの型式は、
  左がたぶん ボーイング 747 向けの トレント RB211-524 (1973)
  右は ボーイング 757 クラス向けに開発された トレント RB211-535 (1984)。

     なお、『トレント』の名は RB211 で三代目だが、初代の トレント RB.50 (1945) は技術的に完成した最初のターボプロップ・エンジンで、のちのロールス・ロイス ダート (1947)となる。日本航空機製造 YS-11 (1962)にも採用された。
     二代目の RB.203 トレント (1967)はスリー・スプール(3軸)形式を最初に採用した低バイパス比の軍用ターボ・ファンで 3軸構成では RB211 に多少の関連がある。こちらは三菱 T-2 / F-1 (1971/1975)にも双発として採用された。 (閑話休題)

RrfanbladeevolutionCfmblades

次に右(上)の画像は CMF インターナショナル
ブレードの変遷が並べられています。

右から ・・・
  CMF56-5B (1991)で エアバス A320 系へ、
  CMF56-7B (1995)で ボーイング 737-600 以降へ。そして、
  CMF LEAP (2013)は エアバス A320neo ボーイング 737MAX
                
中国商用飛機有限公司 C919 へ向けられます。

実年代ではなく技術世代の比較とすれば、
  RB211-524 vs CMF56-5B
  RB211-535 vs CMF56-7B
  RR トレント XWB (最上部の右側画像参照)vs CMF LEAP (-56)
となります。

Ge90ちなみに CMF インターナショナルGE アビエーション(米) と サフラン エアクラフト エンジンズ(仏)傘下のスネクマ との合弁会社です。

エアバス A320ボーイング 737 向けエンジンの開発と生産に特化して設立されたました。

GE アビエーション 本体の最新エンジンは ボーイング 787 向けの GEnx ですがファン・ブレードは ボーイング 777 向けの GE90 を継承しているようです。

右上は以前に掲載していた GE90 の画像の再掲です。 CMF LEAP (-56) とのビミョーな違いは次回に回します。

-------------ここから本題----------------

これらの画像から分かる形状の変遷は次のようにまとめられる。

 新旧いずれのファン・ブレードもレシプロ・エンジンのプロペラのブレード間のような隙間はない。

 初期のファン・ブレードは翼弦が狭く枚数が多い。

 ブレード長さの中央部に “Clappered”「鼻付き」と説明される突起がある。
これは正面写真の左半分の中央付近に見えるリング状のミッドスパン・スナバー(Mid span snubber)と呼ばれる中央部制止環もしくは連結部材を取り付ける個所であります。

     なぜ必要か?というとブレードに発生する振動対策であります。
     特にジェット・エンジン本体や取り付けられた補機などの回転や振動に加えてブレードに働く揚力と抗力で発生する空力振動に誘発される共振という現象です。
     この共振という現象は理論上は無限大のピークを持ち構造を破壊する元凶であります。
     もちろん共振周波数を避けるブレードの材質や形状で工夫を凝らした緩衝メカニズムを機能させてピークの減衰を図りますが、皆無にはできません。
     まして近接するブレードの数々が勝手に振動や共振を始めたら収拾がつかなくなります。
     このため、ブレードの中央部にミッドスパン・スナバーを取り付けてブレードを一つの振動体にまとめる構造であります。
     ミッドスパン・スナバーを二つ使った例は P&W JT-9 (1966) を先々回の画像でご覧いただきました。

 そしてこの時代、ブレードが細くその枚数は多い。その理由は、・・・

 空力的な知見から 2017.07.19 の記事 のプロペラの推力係数 AF の式で示されたようにファンが許容できる(念のため構造の強度ではありません)推力を示す係数はブレードの数 B に比例して大きくなる。

     前出の教科書ではブレード翅数 B を増やすと空力干渉を起こしプロペラ効率が落ちる指摘がある。
     しかし、ジェット・エンジンでは効率以前の問題として、できれば干渉さえ利用して、ファンの正面面積をブレードで覆うことでその高出力を許容吸収することになります。
     初期のターボ・プロップのコア・エンジンの出力はレシプロの少し上となる程度に設定されてプロペラもレシプロの経験の延長上となるパドル・タイプに設計されていた。
     
しかし、現在ではブレードの形状を洗練させて翅数を増やし、さらにはプロップ・ファンと称してコア・エンジンの高出力化を図っている。

 (承前)さらに誘導抵抗の低減には翼弦を狭くしてアスペクト比を大きくとることも考えたのかもしれない。(当CEO としては後者のアスペクト比との関連には多少の疑問がありますけど・・・)

 別の視点からは、ターボ・ファンの回転数は低圧圧縮段の回転数 N1 と同じでレシプロに比べると格段に大きいことによる構造の強度限界があります。

 すなわちファン・ブレードの質量に比例し、回転数の二乗に比例する遠心力の影響であります。 加えて、レシプロの出力より格段に大きいジェット・エンジンの駆動力をファンで変換した推力も加わります。

 これらを総合すると、この当時にあったファン・ブレードの形状の決め手は材質の質量(正確には密度)に原因があると考察できます。

 遠心力は N1 で回転するシャフトに結合(嵌合)されるブレードの基部に引っ張りの力として、もう一つの推力は前方に向かう曲げモーメントとして働きます。

     曲げモーメントは中立点から前縁に向かって圧縮、後縁に向かっては引張として作用します。前縁では遠心力を緩和し後縁では加重されます。これらの力を合成すると材料強度としては最も弱い剪断方向の力となります。
     
これらのブレード基部にかかる力(kg)は基部の面積(m2)で割られて負荷応力(kg/m2)となり材料の許容応力(kg/m2)と比較され安全率を加味した基部嵌合部の面積(m2)ひいては長さ(m)が求められます。

 いずれが、卵か、ニワトリか、になりますが、上記の理由をバランスさせた基部の長さか、ブレード基部の構造上の寸法制限か、あるいはその両方か、で基部の寸法が決まります。

 ブレードの形状や構造の一義的な目的はブレード1 枚の質量をいかに軽くするかになります。この時代にはブレードの幅を細くして枚数を増やす案が採用されました。

 この当時のブレードの材質は無垢のチタンの板から削りだされていました。これから先は軽く強い材料の開発がファンの形状の変化を伴う技術競争となります。

あー暑い

画像の多用でスペースをとりました。次回(その 5 の 2 )「ファンだって奥は深いのだ ! 」 につづきます。

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