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2020年7月の1件の記事

2020年7月30日 (木)

キネマ航空CEO 「哲学カフェ」 に顔を出し、「メメントモリ」 と「旧知」 を思う

―――――「哲学カフェ」―――――

「本日のお勧め」として日替わりの豆とローストでドリップをする珈琲を飲み、備え付けの新聞や月刊誌に目を通したり、纏まった読書に没頭したり、纏まりのつかぬブログを書いたり、オーナーとの雑談を交わす茶房がある。

そのオーナーから、月に一度夕べから始まるオープンテーマの「哲学カフェ」の場を提供し始めていると聞いて顔を出す。

哲学「にも」なのか、「には」なのか、色々の接頭形容句が付けられる。今回で3回目と言うことで「起業」哲学に進むらしい。

大企業にもサイドビジネス(副業)が許される時代では安定した企業に就職しても、否(いな)、なおさらに二重に雇われて行う副業ではなく創業による自己実現のための副業を奨める「哲学」講座のようだ。

いつの時代にもある履き違えた厚さが違う二足の草鞋の平衡の取り方かな、とも思うが、当CEOの一回り年下の主宰者や二回り下の参加者が「ああだこうだ」と話すのを聞くのも面白いので、もう一、二度参加して見るつもりでいる。

とは言え、「起業と言う精神活動の不足する社会」が日本の将来への不安の一要素であることは間違いないし、また「志のある個人の不安を支えようとしない社会風土」の中での一歩を表しているとも言える。

最も「その社会風土」のロングテールの中にいる当CEOは、起業投資のお誘いに巻き込まれないように念のため当CEOの興味は「実学」ではなく「形而上学」としての「哲学」にあると先に逃げを打っておくことにする。

ただ場所を提供しているオーナーの想う「哲学カフェ」のイメージとは少し違うようで、講座の終わりの座談では「メメント・モリ」の言葉がオーナーから発せられたが参加者の興味を引かなかったようだ。
ラテン語の“Memento mori”であり、キリスト教の中では「死を想え」あるいは「死を憶いだせ」の意である。

―――――「旧知の訃報」―――――

そして、帰宅して日付の変わる頃、日々チェックする北の中山間地に住む知人のブログで、そこから西に山一つ越えたダム湖となった川を見下ろす中山間地の中腹でブルーベリー農園を営む知人の訃報に接した。

余命宣告されていた彼はその余命を1ヶ月残して逝ってしまった。

彼とは今年の3月の一日、ブログの主に誘われて彼の農園にある甘夏みかんと八朔の収穫に出向いた折、誘い主が到着する前に当CEOの病歴について取り止めのない話を交わした。

当CEOは7年程前、細胞癌であるリンパ癌の手術を受けている。担当医から術式説明の後に「再発の確率は最悪95%から良ければ5%」と説明された。その時は平均すれば50%で普通の生活での生存率と変わらないな、と覚悟めいた思いが掠めていた。

手術は成功し術式での緩解を確認する5年間の3マンス・チェックを経て6マンス・チェック、1イヤー・チェックとなる過程で「その覚悟」は次第に薄れてくるのを自覚する。

そして、リンパ癌の宿命である臓器癌として再発が発見された時点では延命処置しかない。その時に「同じ覚悟」ができるかどうかは、分からない・・・

などを話し終わるころに到着した誘い主と一緒に摘み残されていた、枝にたわわの柑橘の玉を収穫し、過分の分け前をいただき、別れたままである。

―――――「葉隠」―――――

さて、「メメントモリ」、日本語では肥前佐賀藩鍋島家(鍋島本家)の家臣山本常朝(1659-1719)が1710頃から16年にかけて口述でのこした「葉隠聞書」の一節「常住死身【じょうじゅうしにみ】」にもどこかで通じるであろう。

戦国時代最後の大戦(おおいくさ)、大阪夏の陣(1615)から45年後、天草の乱(1637)から23年後に生まれた常朝が52歳から足掛け7年を掛けて聞書きに残した常朝の言う反語もしくは隠喩で示された「生」の意義は日々重ねる主君に対する御奉公の心構えではあった。

また常朝43歳の1701年には天領の肥前長崎で出島警備を行う肥前佐賀藩の深堀鍋島家が長崎会所の役人との間でやられたらやり返す一年をかけた血なまぐさい 深堀事件 も起こっている。

今ももて囃される「忠臣蔵」のネタ元で知られる赤穂事件の江戸城中における刃傷と即日切腹も1701年、浪士の討入りと、徒党を組んでの押込みを評定しながらも斬首ではなく切腹とする幕府の処断は1703年であった。いずれも元禄時代であり戦国の気風が残りまた太平の世の兆しが見え隠れする時代でもあった。

因みに常朝【つねとも】は、心構えの通りに生きていても「追腹法度」でその時を得ず42歳(1700年)で出家し常朝【じょうちょう】として仏門に入り当時では長寿の還暦を越えた天寿を全うしている。ここまでの「常朝」は主君の没後の42歳を境に読み替えてくださいね。

追腹法度は佐賀藩では1661年に常朝の主君鍋島光茂により諸藩、幕府に先駆けて発布されている。先行したのは佐賀藩独特の藩体制にもよるようだ。人道のためではなく「主従関係」を「主君と家臣」から「主家と家臣」へと変えるという「情理」から「条理」へご奉公の定義の転換であります。ただ人間の心では主従関係に限らず「情」と「条」の「理」が混然一体となっている「道理」がある。

ややこしい「理」よりも「道」が大好きな日本人の場合、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の注釈の一文で、後に明治維新により下級武士から成り上がった「士族」の二代目三代目辺りから「武士道とは死ぬことなり」と決めつけられれば、かつては圧倒的大多数の人口を占めていた農工商の職分からいきなり「平民」へと一括りにされて、すべからく「武士」として、「道」として、の「美学」の甕に漬けられて染めあげられるべし、となる。

取りあえずの「理」であるルールの下で勝敗を伴う競技の選手に付けられ、多彩な媒体により拡散される「サムライ・ジャパン(侍ジャパン、さむらいJAPAN、等々)」や「サムライ・ブルー」などは見る者にとっても「常住死身」を知ってかどうか、先の流れの中に入るのだろう。
同様に「なでしこジャパン」も「大和撫子」の流れを引きずり「常住死身」を支える清楚な、あるいは凛とした「貞女の鑑【かがみ】」を想起させるのかもしれない。「大和撫子【やまとなでしこ】」は河原撫子【カワラナデシコ】の異称だが日本女性の美称でもある。千々に裂けた五枚の花弁は色も含めて妖しさも感じられるけどね。

とは言え、西城八十作詞「侍ニッポン」(1931)の元の歌詞は七聯あり幻の七番で終わる。
 二度とせまいぞ 武士(さむらい)稼業 
 泣いて涙で 人を斬る
 恋と意気地の 骸(むくろ)の上に
 降るは昔の 江戸の雪
(「せまいぞ」は「する」の文語体の命令形「せよ」の否定の意思表示「するんじゃないぞ」)
念のため、骸は主人公に斬られた武士ではない。主人公の武士であります。

(閑話休題)

―――――「いくつもの死、いくつかの死」―――――

そして、旧知の彼の死の後にも、残された日本では不慮の死、理不尽な死が続き、その前に表面化していた多くの裁判やゴシップが追いかけ消えてゆく。

当CEOも「メメントモリ」と聞くと「生きねば」よりも、自死や尊厳死がそれなりの言葉の重みを持つ歳となっている。

記憶にある「自死」に言及した言葉では鶴見俊輔の一文がある。鶴見俊輔はリベラリストというよりプラグマチストあるいはニヒリストのようでもある。

また、キリスト教徒であった厳しい母の影響と反発、成人後の仏教への興味、加えて第二次大戦による留学時の戦時交換船での帰国、南方への従軍(軍属)の経験者でもある。
したがい、何を基準にするかはさて置き、左右両側から、中でも左からの毀誉褒貶も多い思想家である。

 「おとうさん、自殺をしてもいいのか?」
と幼い息子にそう問われた鶴見俊輔は、
 「してもいい、二つのときにだ」・・・
 「戦争にひきだされて敵を殺せと命令された場合、敵を殺したくなかったら、自殺したらいい」・・・
 「もう一つは、君は男だからいうんだけれども、もし強姦をして、証拠隠滅のためにその女を殺してしまおうという衝動が起こったら、その前に首をくくって死んだらいい」・・・
  と答えている。(段落や括弧の変更は当CEOの独断による)

この会話は日中戦争でも太平洋戦争でもなく、その知見はあったとしても現行憲法下の朝鮮戦争あるいはベトナム戦争の時代であった。

一方、「尊厳死」は日本の文化の中では「自刃」「切腹」「介錯」と言う儀式をも含めて日本人固有の永遠のテーゼでもあるようだ。(長い閑話休題)

―――――ご冥福を―――――

ヒトと動物の死はどう違うのだろう。ヒトはヒトを弔う心を持っている。(例外を除きと付け加えなければならないのが悔しいが)

その一方で、あるべく生きた動物は死期を悟ると自らその集団を離れて消えてゆく本能があるとも言われている。

いや、屍(しかばね)の周りにその仲間が集まり弔っているのを見かける、と記録するナチュラリストもいる。

ただ、人の感性で動物の行動を記録することは誤りであることが多いと言うサイエンティストの目では、ありえない屍の周りを取り囲む仲間は、動かぬ身体と冷えてゆく体温という不意の死に戸惑っているだけとも思える。

その残されたモノへの戸惑いがヒトの本能に組み込まれてゆく生命の掟の芽生えかもしれない。

そろそろ亡くなった知人の思い出に戻ろう。

三つ歳上の彼と別れた日、相身互いの「ご老体」と呼びかけると「ご老体はやめてくれ」と返されたが「御老公とも呼べないよ」と言うと、苦笑していた彼の笑顔を思い出す。

いま、彼の残したブログを読み返すと日々の生業(なりわい)の間に奥様との旅行、子、孫たちとの触れ合い、級友や同期の友との再会、そして毎年の彼岸の墓参などの日常も溢れている。

ひとり中山間地に起居しブルー・ベリー育成の生業と地域振興の活動を重ねてきた彼はご家族の元で人間、ヒトとして旅立ったのだろう・・・ご冥福を祈る。

彼の活動の一端と後姿は当CEOのブログでも偲べる。ぜひ ご訪問 ください。

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