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2019年3月31日 (日)

キネマ航空CEO 「歴史と哲学と人口を考える」、「アメリカ Part2」自由主義の始動の巻

アメリカの神話時代

 アメリカの独立戦争につづくのは国土の拡張の時代でもあった。その意味では現代に続く近世の思想を旗印として掲げた植民地の独立ではあったが中世の国家と同様の行動原理に則っている。

 この時代から激しさを増すアメリカ・インディアン(ネイティヴ・アメリカンと記すべきか)の虐殺は、スペインのマヤ、アステカ、ポルトガルが行ったインディオ、ロシアのアリュートなどとは時代が異なるはずの人権を憲法に掲げた理想とは相反するともいえる。 が、人間は、理想と行動は背反で両立するのが人間であるということを近代においても証明した歴史ともいえる。

 いずれにせよアメリカの独立後のイギリス本国の犯罪人流刑地がオーストラリアへ移ることになったからと限定することではないが入植者の人口増加によりアボリジニの虐殺が加速されることにもなった。

 ここで日本においても神話から人間の性情としての虐殺の歴史を振り返ることも無駄にはならないと思える。

  当CEOの記憶の中にある記紀のなかで伝承で語られた『草薙の剣【くさなぎのつるぎ】』で神話化された事実の最も妥当なと思える解釈の一つを振り返ってみる。

 まず、名銘の由来は、神代(かみよ)に素戔嗚尊【すさのおのみこ】が出雲国で八岐大蛇【やまたのおろち】を退治した時に大蛇の尾から取り出した剣に付けられた「天叢雲剣【あめ(ま)のむらくものつるぎ】」から始まる。

 間のいきさつはすっ飛ばし、人世(ひとよ)に入って剣は「伊勢の皇大神宮(後の伊勢神宮の内宮)」に収められており、斎氏(後の斎王)であった叔母の倭姫【やまとひめ】から天叢雲剣と小袋を一つ授けられて倭建命【やまとたけるのみこ】は東征に赴く。

  倭建命のプライベートの記述はすっ飛ばし、今の静岡県の中部において国造【くにのみやつこ(官位を得た地方豪族)】が一行を枯れ野に誘導して火を放ち謀殺を計ったが、倭建命は剣で枯草を薙ぎ倒し小袋にあった火打石で迎え火を付けて難を逃れたことから「草薙剣【くさなぎのつるぎ】」となったと由緒が語られる。
(ちなみにその地が草薙、焼津として残っている)

 字面からの事実としては文字として記紀が編纂された時代には破壊消防が行われていたこと、時季としては晩冬から早春にかけてと、思われることぐらいだろう。

 ここで薙がれた「」は植物の草でもあるがその前に大和言葉である訓読みでは【くさ】、原語(中国語)の音読みでは【ソウ】である。
【ソウ】には、粗末、劣る、から、初めの、荒い、例えば草稿【ソウコウ】さらには卑しいもの、蔓延(はびこ)るもの、などに使われるようだ。

 ちなみに【くさ】は室町あたりから忍びの者つまり間者【カンジャ】として使われていたようだ。 草のようにいる人に紛れてということだろう。

 本来の雑【ザッソウ】もマイルドに野【ヤソウ】となるが、有用なら野【ヤサイ】となる。 現代になると重箱読みの競馬【くさケイバ】、野球【くさヤキュウ】があるけれど相撲【くさずもう】からのお流れだろう。

 江戸は幕末のころに莽の臣【ソウモウのシン】が流行る。 草も莽もどちらも草であるが田舎もしくは市中に埋もれた(多くは討幕の)志のある者を指す。 志はあってもなくても田舎や市中にいるのは民【たみくさ】である。 語源となった同様の訓読みでは田【たくさ】がある。

 【ミン、たみ】は人衆、主、臣(シンなるミンではない。シンとミン)と音読みで使われ、その原義は被支配者である。田草を含めて支配者には草は一面では厄介者だったのであろう。

 草を薙いだ剣とは反抗する部族を壊滅させた武器であり、薙いだ炎は血しぶきとして読める。 翻って神代にさかのぼると八岐大蛇とは八人の首魁に率いられた連合勢力であり、その尾とは戦闘員で編成された胴体であり(ちなみに蛇の尾は肛門より後ろらしい)そこから引き出された天叢雲剣は最初から血塗られていたことになる。 つまり外国産の鉄の剣で出雲の砂鉄から良質の鋼の刃(はがねのやいば)を造る技術を奪った記録である。

 そのような読み方は祖先の神話への冒涜であると罵られそうであるが、これらが事実であって、文章で書き残す任を受けたあなた(中級官僚ぐらいかな?)はそのまま活写するであろうか?  私なら忖度をしてファンタジーにする。

 ついでに音読みの草薙【ソウテイ】には「草を刈り平(たい)らげる、乱れを収める」の意もあり、出典との前後関係は分からぬながらも「文字を知る文化人のあなたなーらどうする?」である。

 その後の草薙剣倭姫命の待つ伊勢の皇大神宮へは還らず現在の熱田神宮に収められている。 これも血塗られた剣を帝の近縁の皇女、王女が斎氏、斎王を務める伊勢の内宮に戻すことをはばかったとも読める。

 ちなみに雨叢雲剣が神代から人世に移ったときに形代【かたしろ】(レプリカ)が造られ帝の傍に置かれることになるが、平家滅亡の折に瀬戸内の壇ノ浦に消えている。

 ここで帝は神代から伝わる三種の神器(石器時代の勾玉、銅器時代の鏡、鉄器時代の剣)のうち「剣」を失ったことになるが再び「形代」が造られて伊勢神宮の神事をへて宮中にうつされた。

 いずれにせよ文字のある歴史時代(人世)の日本は、神話時代(神代)の「モノ」である「つるぎ」とは切り離されている神器ともいえる。

 倭建命が活躍していたのは西暦ではA.D.1世紀末を挟んだ辺りで中国で紙が発明されたころとなるようだ。 記紀が成ったのはA.D.8世紀の前半とされるが、現存する紙の写本はA.D.14世紀ごろ。 原本が紙に記されたのかどうかは不明のようだ。

 神話時代は残酷な時代であることに違いはない。アメリカは 紙もあり印刷も可能な文字や写真の時代になってから神話時代を辿ることになった。

 神話は人口が拡大するときに熾きる。 神代の日本の場合にはははっきりした資料はないが、19世紀の南北アメリカにはヨーロッパから4,000万人(当然白人)が移動してくる時代であった。 加えて19世紀後半の奴隷貿易の廃止により労働力を中国やインドなどのアジアからも求める大量移民の時代でもあった。

神話時代と共存する南北戦争と奴隷解放

 前回先延ばしにした南北戦争(The Civil War 1861-1865)とリンカーンの関係ににもどる前に戦前の、敵、味方、中立の関係を整理しておく必要がある。

 アメリカ合衆国として当時の地政学のはもう少し複雑である。 南北問題といっても主にミシシッピ川の以東の話であり、ミシシッピ川以西ロッキー山脈までの中央部にはまだ州制度はないか準州しかなく、ロッキー山脈を越えて西海岸までは北側を除きゴールドラッシュですでに州制度が成立していた。

My darling Clementine(雪山賛歌のメロディ)の”Dwelt a miner forty-niner, And his daughter Clementine. ”は、49年組、つまり(渓谷沿いの岩穴に)住む一攫千金を夢見る金鉱探しの娘の哀しい物語です。ジョン・フォード監督の『荒野の決闘 "My darlin Clementaine (1946)"』のオープニングとラストシーンに使われていました。 49年組とは合衆国がその前年の1948年にメキシコから購入したカリフォルニアへ、48年に東部から出発して未開の土地を越えロッキー山脈を越えてゴールドラッシュの幕開けとなる(18)49年にたどり着けた人たちです。

 地政学の中には気候の要因がある。 北部では冬季の農作業は限られており南部のように周年にわたり固定した労働力を確保する必要性はすくない。 結果として北部は工業化に向かう自由労働制度、南部は奴隷制度が産業基盤を支えることとなり、自由州、奴隷州と呼ばれて南北の対立は激しくなる。 もっとも奴隷制度自体は英国が持ち込んでプランテーションを運営していた。

 その実態は産業構造によるこの制度の違いにより州の対立が顕著になり連邦政府はミシシッピ川以西からロッキー山脈の間の中央部では1820年に北緯36度30分以北では奴隷制度を認めない「ミズーリ妥協」成立させて南北間の平衡を成立させた。

 時代が下り南北縦断鉄道建設計画が具体化する34年後の1854年にはこれを廃して新しい州となる準州の奴隷制度の選択は州民の意志によると主張する民主党(Democratic Party)が「カンザス・ネブラスカ法」を連邦議会で通過成立させた。 その結果、この地域をめぐる南北の暴力をともなう対立ははげしくなり、1860年に北部は奴隷制度廃止論者を結集して結成した共和党(Republican Party)は翌1961年にエイブラハム・リンカーンを第16代大統領に選び、就任直前に南部七州は連邦制度から抜けて合州国を抜けて南部連合国を結成しさらに四州が加わり南軍を構成した。
(奴隷制度を容認するのが南部の民主党となる。言語の差、意味の差はややこしい。 かと言って日本人がいちゃもんを付けるのもおかしいが、曖昧にするのもおかしい)

 結局のところ「カンザス・ネブラスカ法」は「ミズーリ妥協」破りであり、南部資本による新興の準州を通じた鉄道利権の拡大に対抗する北部は有効な反撃として使える懸案や法案もなく、リンカーンには憲法による「自由と平等」「奴隷解放」を旗印する言葉に信念があったし、従う合州国民も大勢いたことで戦争は開始された。

 北軍は緒戦の劣勢を海上封鎖と人種を問わぬ徴兵制の採用と焦土作戦で南部連合を追い詰めて1865年に終結した。 戦争を俯瞰すると兵力、兵器、工業力、経済力の差といった面では(特に北軍が)先端の兵器を用いた近代戦であり、来るべき太平洋戦争の雛型でもあるといえる内戦でありました。

 叙事詩としては負けた南部では中世的な陽動、奇襲の作戦指揮をとったリー将軍は英雄であり、焦土作戦を指揮した北軍のシャーマン将軍への憎悪は強いようだ。 この辺りは思想や宗教を問わず、日本の零戦や山本五十六(元帥)神話との心情的な類似点が感じられる。

 さて勝利した合衆国のリンカーン大統領は1964年の大統領選挙で再選されており速やかな南部連合国と合衆国の再統一のため寛大な講和条件で対応するが1865年4月14日に暗殺され、対南部連邦の政策を引き継いだ後任のジョンソン大統領の時代に対南部強硬派が議会の大勢を占めて戦後復興の主導権を得ることになる。 実際の連邦軍の旧南部連合からの撤退は1877年であった。

 奴隷解放政策については1860年の共和党の結党政策で予備宣言として公表されている。 リンカーンが大統領としてかかわった奴隷解放政策は1862年9月と1863年1月の二度に渡って交付されている。 そして1865年1月31日に、議会で承認された「アメリカ合衆国憲法第13条修正条項」を各州に提出した。

  修正第13条に続き関連する修正第14条、修正第15条が成立し奴隷制に関する「リコンストラクション修正3法」が構成される。 これらの合衆国憲法が効力を発効するには各州議会の承認が必要であり最後に承認したのは20世紀末の1995年3月になった旧南部連合国のミシシッピ州でありました。

 リンカーンの行なえた具体的な政策は極めて恣意(意図的な)的な実行であり、例えば共和党の予備宣言では南部諸州が合衆国内に留まれば奴隷の開放は必要としないとか、合法的奴隷制度の廃止は南部連合国に対してであり合衆国(北軍側)に留まった奴隷州には適用されないとか、であり、妥協とも戦争の本質的目的達成の手段ともとれる。

 リンカーンが憲法修正を急いだのは戦後の揺り返しを恐れたのであろうが、それが暗殺に繋がったといえる。 暗殺計画は大統領、副大統領、国務長官の同時殺害による国家転覆であったが失敗した。 成功したらの if では北軍の中にも奴隷解放政策が明らかになるにつれて除隊するものもいれば建国の理想の実現の戦いとするものもいた。

 リンカーンが無事であったなら、は希望的な if になるのだろうが現実は暗殺者の意図はある程度成功する。 政権を継承した北部の共和党議会では旧南部連合諸州の再建にはより過酷な条件を課す一方で奴隷解放を実行させた。 しかし旧南部連邦の諸州は州議会としての権限で黒人(厳密には有色人種)に対して差別的な習慣化した制度を維持していく。

 奴隷制度はどのようなものであったのか、は一概には言えない。 被強制労働者であり土地所有者の財産と定義されるが、その庇護はあった。 労働力であり病気の蔓延にならないように清潔さを保ち、それなりの食事も保障を担保する必要があった。 奴隷解放は現実の中で最低限の生きる保証を奪うことになる。

 解放された元奴隷はプランテーション(農園)に居場所を失うが仕事は農園にしかない。 名前が小作人に変わっただけである。 自由労働者になったら農園主は多少の給料を上げても宿泊費と食費で回収できる。 むしろ完全な自由あるいは放置された自由のほうが危険でもあった。 ほかに彼らを受け入れる土壌はないのだから。

 やがて、タバコから綿花と受け継がれてきたプランテーションも工業化と共に消滅し元奴隷は職を失い都会の失業者となる。 そしてKKKなどの匿名集団や公権力による警察権の行使という生存を否定する勢力の時代がつづく。 法律上では黒人の土地所有はまだ禁じられていた。

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リンカーン神話の翳

 「奴隷解放」はヨーロッパには「自由と平等」の戦いを想起させて外交カードとして有効に機能した。 緒戦より綿花の取引で南部の背後にいた英国も手を引き海上封鎖で外交、商取引の途絶で南部を孤立に導いた。

 では、ここからリンカーンのネイティブ・アメリカンの運命を振り返る。 1521年から1890年にかけて入植者とネイティブ・アメリカンとの戦闘地域を記した地図から抽出して次の年代に分けて表にしてみる。

 なお、1890年はスー族を中心とした最後の抵抗であったがウーンデッドニーで敗北し合衆国はフロンティアの消滅を宣言した年。 1521年はっきりしないが中米のアステカ帝国がスペインにより滅亡した年でもある。

ネイティブ・アメリカンの抵抗の記録(1521-1890)
年代 1521-1774 1775-1783 1784-1847 1848-1860 1861-1865 1866-1890
時代   独立戦争   ゴールドラッシュ 南北戦争 フロンティア消滅
年数 253 9 63 13 5 25
戦闘回数 21 4 17 19 18 18
回数/年 0.08 0.44 0.27 1.46 3.6 0.72
戦闘回数の補足 1675-76年
にかけて6回
  1811-13年にかけて6回 1855-56年
にかけて9回
リンカーンのレガシーとしての1866-68年
を加えれば
24回
4.8回/年
となる
1876-77年
にかけて8回
1876年 に
リトル
ビッグホーン
で第七騎兵隊が全滅

「時代」の区分は発生した「月」を勘案すべきではあるが「年」でくくった。
年数の長い区間では「戦闘密度の補足」で連続かつ集中していた回数を抽出した。
これらも入植者や騎兵隊による強制移住が遠因や原因であった。

 ネイティブ・アメリカンの受難はリンカーンが政界を志した時代であるゴールドラッシュから深刻化してくる。 大統領就任後は自由と平等の象徴として奴隷解放を掲げてはいるが支持勢力を含めて本質は共和国(合衆国)の統一と発展であり、ネイティブ・アメリカンはその障害でもあったようだ。

  リンカーンが暗殺を逃れていれば解放されたアフリカン・アメリカンとネイティブ・アメリカンの運命がどう変わったか、リンカーンが彼らに自由と平等を与えたか、与えられたか、の if は分からないがリンカーンは神話は歴史の中に埋もれていった。

 1500年には450万人ほどいた北米のネイティブ・アメリカンは1890年には50万人にたらなかったと記録から推定されている。

 その差の400万人は98回の戦闘による死者以上に、土地を追われ狩猟、農耕で得る食糧を奪われた餓死、居留地に押し込める狩り立て、脱走時などの虐殺もあれば、何よりも厳しい環境の中であっても生存できる生命の上限を満たすべく生まれてはこれなかった子供たちの数でもある。

 「哲学と人口」には程遠かったが、以上が正義の戦争の実態である。 しかし、これを白人もしくはキリスト教の所為とする日本人による左右の論調があるが人間の行為としては日本の神話にも埋もれ、歴史の中に隠れていることは確かである。

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 予告では「なぜ南部連合は独立を目指した」のかは北部連邦と同じく「奴隷制度」とは表裏の問題であった。 それは、産業革命のなかでインド綿花の移植栽培と紡績機械の考案が・・・と続くはずだったが本稿で飛び飛びに概説しており、中止して次回はアメリカの神話時代に行われたフランス革命に戻ります。

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 ネイティブ・アメリカンの抵抗が終焉してアメリカがフロンティアの消滅を宣言した1890年は【M +7、E 45、L 21、S 12 】で(+7)はマルクス死して7年目となる。

 年号【 】内は主要人物の数え年。 例えばマルクスの生年では、1818年【M 1、E -2、L -52、S -61 】
                                    没年では、1883年【M 66、E 64、L 14、S -5】

                  M : マルクス、E :エンゲルス、L : レーニン、S : スターリン。
                 (マルクスとエンゲルスは同年代、
レーニン、スターリンとは半世紀の年代差がある)

 こうして膨張し分裂したアメリカは再度統一されてマルクス主義の宿敵である自由主義を掲げた最強となる連邦共和制の合州国が誕生した。

 

2019年2月28日 (木)

キネマ航空CEO 「歴史と哲学と人口を考える」、「アメリカ Part1」資本主義の勃興の巻(Part 2)

 今回は「アメリカ」資本主義の勃興編「南北戦争」に跳ぶ。
 跳んでいる間に同様に自由主義の旗を掲げたフランス革命が起こるのだが、それは今回のあとに・・・、

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 現代への革命と呼べるのはアメリカの市民戦争いわゆる南北戦争(The Civil War 1861-1865)であり、資本主義の幕開けといえる。

 しかし、その前に、先回のアメリカ独立戦争(1775-1783)の終結であるパリ条約をチラ見しておく。

 1783年のパリ条約によりアメリカはミシシッピ川以東の東ルイジアナをイギリスより割譲、北緯49度線の南側と北側を交換し後のカナダとの国境線を確定。フロリダ半島は連合国であったスペインに返還され、1819年になってスペインから買収した

 なお、両戦間の1803年にはミシシッピ川西岸からロッキー山脈以東の西ルイジアナをフランスから買収。(試験には出ないと思うけど、この年は覚えておいてね。フランスも火の車だったのよ。 ついでにテキサス分離独立派とメキシコ共和国の間の戦闘の象徴とされるアラモの砦をめぐる戦い(1836年)もこの戦間であった。

 独立から62年後の1845年には現在のテキサスを併合、1846年には西海岸の北側のオレゴンを併合、1847年に米墨戦争戦争でメキシコより西海岸の南側を割譲させ、1953年にはメキシコの北側を買収して現在の米国本土が確定した。。

 ちなみに、アメリカ側で参戦したオランダイギリスとの海外植民地の覇権抗争の劣勢を挽回しようと1780年に参戦したのだが、同年にイギリスから宣戦布告されたアジア植民地をめぐる第四次英蘭戦争中にアメリカ独立戦争の戦勝国側になった。

 しかしイギリスとの講和条約は1819年となりお互いに占領した植民地はフランスの調停でオランダに戻されたり交換したりすることになるのだが、戦闘では本国沖の海戦に敗れたりと、オランダにとっては外交の思惑から外れた参戦であった。

また余談ながら、1819年は日本の海外への窓となっていたオランダの凋落が顕わになった年であった。 江戸では田沼意次の権勢が翳り、天明の大飢饉の時代であり、「剣客商売」の秋山小兵衛が活躍していた時代でもあった。 明治維新まで49年でありました。

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 アメリカの独立戦争につづくのは国土の拡張の時代でもあった。その意味では近世の思想を掲げた植民地の独立ではあったが中世の国家と同様の行動原理に則っている。

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 本来の南北戦争(The Civil War 1861-1865)にもどると、リンカーンが奴隷解放のために始めた人道上の戦争と思っている人がいるかも知れないが、それは後に廻して、

 大枠はアメリカ合衆国となった両大洋に挟まれた大陸の地形と風土と人口(いわゆる地政学とはちょっと違うようなゲオポリテックス)により産業形態が分かれた。言ってみればずっと後にもみられる南北問題でもあります。

 農業主体の南部が大農園奴隷経済(いわゆる『奴隷州』)であり産品の自由貿易が基盤

 工業化を進める北部は自由労働経済(いわゆる『自由州』)であるが遅れた工業国(地域)として保護貿易が必須

 と、依って立つ経済基盤の相違による内戦でありました。

 ちなみに南北戦争では南部は南部連合(南)軍とも呼ばれ独立戦争後に収得した地域に成立した連邦に属する州が主体であった。 いっぽうの北部は独立以来、その州制度を維持する政治の中心であり連邦(北)軍であった。

 独立戦争によりアメリカ合衆国(United States of America)を構成する連邦州(United States)から州単位で独立を宣言したしたアメリカ連合国(Confederate States of America 存在期間1861-1865)の「(南部)連合」軍から攻撃を受けた側は「合衆国(United States)」軍として応戦することになるが、本家を名乗るのもおこがましいと思ったのか、元祖で行こうと思ったのか合衆国の制度上の本質となる連邦共和制(Federal republic)から「連邦」軍と呼ぶ。

(またまた余談ながら)メロディは讃美歌からの使い回しだが北軍の行進曲として作詞されたリパブリック讃歌(The Battle Hymn of the Republic / 共和国戦闘讃歌)がある。 日本では「オタマジャクシはカエルの子・・・」や「権兵衛さんの赤ちゃんが風邪ひいた・・・」などの替歌で知られている。 

 戦端は1860年4月14日に南軍によって切られたが時の大統領 A・リンカーンは同19日には南部海岸線の海上封鎖を行い基本となる戦略を確立した。

 自由州は開戦当時にはまだ州制が引かれていなかった地域(ミシシッピ川の西、ロッキー山脈の東の合衆国政府が所有地する過疎地)を挟んで東岸となる大西洋から、1848年あたりに始まったゴールドラッシュによる一攫千金のカリフォルニア州や農牧中心のラスト・フロンティアとなるオレゴン州などの西岸となる太平洋まで広がり北軍側についていた。

 いっぽうの奴隷州(南軍)は東は海上を封鎖された大西洋(含むメキシコ湾)岸から西はテキサス州とメキシコとの国境線までであった。

 殆んどの戦闘は人口の多い東半分で行われたが、連合と連邦の南北間に挟まれた奴隷州であったミズーリ、ケンタッキー、ウェスト・バージニア、メリーランド、デラウェアの5州は戦争中は政治的には連邦内に留まった中立を掲げたが民意の一部は南部連合を支持していた。

 戦闘詳細には立ち入らないが、戦争前の1853年には日本にも現れた黒船(合衆国海軍)による海上封鎖と、何よりも綿花のような工業原材料となる輸出農産品による自由貿易では国家として独立できない産業形態によって何はともあれ南部(連合の文明)は『風と共に去』った。。

 かくして南北戦争の終結による余剰兵器が日本にも流れて特に小銃を持った歩兵戦で成立する明治元年まであと3年。 

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 南北戦争は1865年5月9日に書面上は終結したが歴史的記述とすれば戦闘は翌月の後半まで続いている。【M 47、E 45、L -7、S -14 】

 年号【 】内は主要人物の数え年。 例えばマルクスの生年では、1818年【M 1、E -2、L -52、S -59 】
M : マルクス、E :エンゲルス、L : レーニン、S : スターリン。(マルクスとエンゲルスは同年代、
レーニン、スターリンは半世紀の年代差がある)

 こうして膨張し分裂したアメリカは再度統一されてマルクス主義の宿敵である自由主義を掲げた最強となる連邦共和制の合州国が誕生した。

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 奴隷解放と差別の激化(次回につづく)

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 南部連合国の誕生の背景(次回につづく)

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2019年1月31日 (木)

キネマ航空CEO 「歴史と哲学と人口を考える」、「アメリカ Part1」自由主義の勃興の巻

 「資本論」の予言性を確かめるとなると「共産革命」を論じることと等価と思えるのだが、「革命」とは何か、が分からない。
 便利な言葉でテキトーに頭に「名詞」を付けたり、お尻に「的」を付けて形容詞にすれば何にでも使える。 ただし、「形容詞」を頭につけていたら情緒に流れていると思ったほうが良いようだ。 例えば「美しい」とか、「汚い」とか。

 歴史や思想や哲学で使われる「革命」はつぎのようにまとめられるように思える。

 ① 「同じ地域(国)の中で、同じ言語を話す集団の一部が、既存のヒエラルキーを破壊
   すること。  時として暴力を伴うことが多い」
 ② 「成功した革命は、革命行動に加わらなかった民衆を新体制に従属できた場合」
 ③ 「失敗した革命行動は反乱と呼ばれる」

 したがい、革命は思想や哲学の理念や理屈の外にいた民衆を、共感であれ、恐怖であれ、新体制に組み込むことができたかどうかで決まる。

 革命の理念や理屈に与しないで、さらには社会の中で反抗し、あるいはしなくても、混乱の中で殺されても、同じ地域や同じ言語集団に残るのか、あるいは逃げ出すのか、の選択を自分や家族に強いる社会現象でもある。

 現実は外国からの干渉や地域の歴史的な経緯など社会現象としては複雑なのだが ② となる場合は民衆の味方(Ally)、敵(Foe)、中立(Neutral)のモーメンタムもしくはベクトルの認識が重要となる。

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 人間の歴史を遡ると、現在、現代、近代、近世、中世、古代、神話時代と区分される。

 歴史を学ぶときに惑わされてはならないのは、『代』や『世』を民心の在り方と捉えれば世界が同時に時代を変えたことはない。 おそらく、これからもないだろう。

 その時代区分の中で、マルクスらの「資本論」の世界である共産革命は資本主義の、すなわち、現在の、「成れの果て」、として定義されている。(何しろ革命による共産国も鎖国的資本主義となっているのだからどちらに早く予言が現れるかでもあります)

 共産革命の幻想は世界で最初に近世から近代に変わった、アメリカの成立から始まることになる。
 ただし、メイフラワー号によるプリマス(1620)到着から始めるつもりはない。 それ以前にイギリスはバージニア(後の州、もちろん勝手に命名)に植民を始めており、メイフラワー号本来の目的地であった。

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 つまり、現代につづく近代の始まりはアメリカの独立戦争(1775‐1783)といえる。
 アメリカではこの戦争を独立革命あるいは革命戦争と呼ぶ。

 なぜ独立戦争を近代の幕開けとなるのか、は、現在につづく「人間の平等の権利」が国家としての独立宣言に盛り込まれ、近世の血統による王権の継承から離れた選挙による大統領制度が確立したことにある。

 さて、当時の独立派の拠点は北米大陸の東海岸にへばり付いていた、いずれは13本の線となる英植民地であった。 そして、のちに星となって加わる地域は欧州列強の植民地となって周囲を囲んでいた。

 フランス は、五大湖の一つオンタリオ湖から大西洋にそそぐセントローレンス川の流域、と、現在のミネソタ州を源流として30余の支流を集めてメキシコ湾にそそぐミシシッピ川の流域すなわち北米大陸の中部に勢力を伸ばしていた。
 スペイン は、ミシシッピ川河口のセントルイス以西のロッキー山脈の西側の南半分を制していた。
 ロシア は、アラスカから西海岸の北部にかけて進出をしていた。
 イギリス は、セントローレンス川の北側(現カナダ)とスペインから奪ったフロリダ半島を抑えていた。

 ここで上げた国名は現在と同じだが形態は帝国、王国であった。しかし、今ではイギリスと現代になってフランコ独裁後に復活したスペインを除き皇帝も国王もいない国となった。

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 ここで、本国と植民地の人口や職業構成比などを挿入したいのだが、確たる資料が見つかり次第追記することにして、なぜ圧倒的に少ない人口の植民地の独立が可能だったのか、を考えてみる。

 一つは英本国はヨーロッパの勢力図やアジアにおける植民地経営で補給線が手薄であったこと、さらにはそれに基づく新興の北米植民地に対する課税強化を行ったこと。 一つは独立側は自発的入植者や流刑者であったことから本国に対する忠誠心は薄かったこと、が上げられる。

 さらに、米国独立戦争時の国際情勢は植民地軍に有利な状況が上げられる。

 劣勢の植民地軍に対しフランスポーランドの義勇軍やプロイセンの義勇兵(将校)が参加し劣勢を挽回し、フランクリンの遊説によりフランスが対英参戦、続いてスペイン、アメリカ大陸にはあまり関係のないオランダも参戦。

 いっぽうではロシア(エカテリーナ2世)の主導によりプロイセンスウェーデンデンマークポルトガルの武装中立同盟の結成。 かくしてイギリスの周りは敵国と中立国で包囲され孤立した。これはアジア、アフリカ植民地の覇権抗争の一角でもあった。 

 軍事的に見ればイギリス側には植民地内の王党派、ドイツ諸侯公国からの傭兵部隊、皮肉なことに植民地の拡大を嫌う原住民(ネイティヴ・アメリカン)がいた。 英国政府はアメリカ大陸の分割売却をもくろみ植民地の西進を禁じていたが現地では無視されていた。 ついでながら、イギリス本国内でも野党は独立軍を支持していた。

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 とにもかくにもアメリカは 1783年【M -35、E -33、L -87、S -94 】にパリ条約で独立を果たした。

 年号【 】内は主要人物の数え年。 例えばマルクスの生年では、1818年【M 1、E -2、L -52、S -59】
アルファベットは M : マルクス、E :エンゲルス、L : レーニン、S : スターリン。
(マルクスとエンゲルスは同年代、
レーニン、スターリンとは半世紀の年代差がある)

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 こうして「自由主義」を掲げた国家が誕生した。

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 次回は「アメリカ」資本主義の勃興編「南北戦争」に飛ぶ。 この間に同様に自由主義の旗を掲げた革命がフランスに起こるのだが、それはそのあとに、

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チラ見せ!!

 

 しかし、本来の現代の革命と呼べるのは南北戦争(The Civil War 1861-1865)であり、資本主義の幕開けといえる。

 

 その前に、・・・

 

 以下、追記予定です。

 

 

2018年12月29日 (土)

キネマ航空CEO 「歴史と哲学と人口を考える」 の巻 (朦朧編)

 (妄想編)では「哲学や歴史は未来を予言するか、できるか」を考えるために、外れた予言としてマルクスの「資本論」を槍玉に挙げた・・・とは言いながら明治5年の戸籍を中心に前後の調査結果から身分別と職業別の人口を確認したところで終わった。 
  出典 「近世日本の人口構造」 関山直太朗 1958 吉川弘文館

 明治2年から3年にかけて行われた身分別の人口を含む藩籍調査は旧藩の組織を通して行われた。 その2年後の明治5年に新政府が行った戸籍法による人口調査と比較してもある程度の正確度で実施されていたようだ。

 明治政府は旧藩の組織を極めて従順に、もしくはシステム的に、活用できていたと考えられる。(薩長土肥の行政督励官が派遣されていただろうけど)

 明治維新は革命(レボリューション)というより、乗っ取り(テイクオーバー)と名称変更(リネーム)をしたともいえる。 そしてそのあとに仏教をスクラップ、そして、神道をビルドするイノベーションを行ない新しい起業文化(スターティング・ビジネス・アイデンティティ)を加えたと言えそうだ。

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 さて明治維新は200万人の支配層に3,000万人の被支配層の平民が従うことで成立したといえる。 もちろん支配層の人数には家族が含まれるが実質的な指導層であることには変わりはない。

 のちに平民とされた身分でも積極的にかかわった人々もいる。 しかし、先ほどの実質的な数に大差はない前提が成立すると考える。

 その支配層の中でも大政奉還後の錦の御旗に対して味方(Ally)、敵(Foe)、内実は複雑であろうが中立(Neutral)の大略三つの立場の選択を強いられる。

 旧勢力(Foe)の掃討には具体的な戦闘行動を伴う。 その軍隊に対応する立場の選択には藩の思想(空気ないし雰囲気)や経済に加えて地政学的な要因で藩主と側近となる家老などの決断が下されて、あるいは放置されて、のちの平民となる農民、町人の運命は決まったと思われる。

 藩の行動の制約は一応は武士の数で決まる。 ちなみに下表は同じ出典の明治3年の各藩の身分別人口比率を算出し各々の最低と最高の比率を比較したものである。

明治3年藩政録の身分比較(%)
身分   最低    最高        
武士(華士族、卒) 3.92 26.54
百姓(農民) 52.42 89.55
町人(商・工) 2.55 23.40
神官 僧侶 0.75 2.47
エタ・非人 0.05 3.02

 数値を縦に足しても100%にはならない。 各藩の数値の最高と最低を拾ってを並べただけである。  さて、・・・

 ① 武士階級が3.92%の藩はどこだろう-薩長土肥に抵抗しで多くの戦死者を出した藩なのだろうか。
 ② 逆に農民が54.42%の藩はどこだろう・・・町人や武士が多い藩となるが江戸や大阪の幕府直轄地は入っていない統計だからなー。
 ③ 農民が89.55%の藩となると①の裏返しなのか、それともかなりの貧乏藩でユートピアには違いないのだろうが明治維新は渡りに船とも言えそうだ。 あるいは数値をテキトーに作成して、せめてもの抵抗をしたのか・・・(歴史はこんなデータの解読から始まるんだろうな)

 想像できるのは幕府の止(とど)めを刺したのは武士階級の比率より絶対数が多い藩であることは間違いないであろう。

 特に薩摩藩の例では多くは(外城)農地に展開している郷士と呼ばれる層の存在と思われる。

 長州藩では薩摩藩ほどの層の厚さはなかったが下士官クラスを兼ねて農民組織を兵として統率指揮できるクラスの下級武士がいたと思われる。 加えて農村医だった村田蔵六(大村益次郎)という軍事の逸材を抱えていた。

(当CEO の余談)
 では幕府はというと、お膝元に御家人と呼ばれる下級武士はいたが職制は旗本(騎兵)の配下(歩兵)にすぎない。 時代劇で描かれるお江戸は八百八町の治安を預かる八丁堀の与力(旗本)と配下の同心(御家人)で知られる組織形態でありました。 奉行所の出役には与力は騎乗だが同心は徒歩(かち)早駆けであります。

 人数上は1722年(享保7)の資料では5,205人の旗本1人に(17,399人の)御家人が2-3人の割合であって、御家人株の売買は公然化されており、組織上でも討幕軍に対抗するための兵となる旗本知行地の農民や市中の町人の組織化や指揮統率ができるような社会構造ではなかったと考えられる。 むしろ、天領や関東以北の豪農の中から佐幕派の浪士が生まれている。 上野戦争における彰義隊の兵力は4,000名とあり町人、博徒、侠客が加わったようだが正確な人数や役割は歴史から消えている。(余談終り)

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 上で述べた疑問は佐幕派討伐軍の東征北伐ルートにあった藩ごとの記録の中の人口の動向と藩の記録や農民・町民(未来の平民)が残した記録をたどって五稜郭までの庶民史を描く研究があってもよさそうだがマスメディアに取り上げられることはなさそうだ。

 当CEO の幕末や明治初頭史の知識は、史実かどうかの疑問を含めて歴史書に名を遺した人物が活躍する映画やTV などを窓口としており、幕末明治庶民史とは程遠い。 どなたかが解き明かしてくださることを願っている。 

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 世の中を大括りに表す言葉に、「平時、乱世、大乱世」、がある。 時【じ】と世【せい】の違いは続いた期間と思われる。 もちろん「時」は短く「世」は長い。

 徳川幕府の終わり方を見ると、渡辺京二氏の描くパックス・トクガワーナを平時【へいじ】ではなく平世【へいせい】と読者に錯覚させたい気持ちも分からなくはないな、とも思えては来る。

 「資本論」の予言性は年を越えて「朦朧編 Part 2」につづくのこころだ!

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いや「朦老編かな」?

へ続く

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2018年12月26日 (水)

キネマ航空CEO 「歴史と哲学と人口を考える」 の巻 (妄想編)

ふっと、19世紀後半のプロイセン王国、ドイツ帝国の首相オットー・フォン・ビスマルクの名言とされる「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」、が当CEO の頭をよぎった。

「愚者」と「賢者」はともかくとして「経験」と「歴史」の並列、もしくは対比、は何とも収まりが悪いように感じられる。 「してそのこころは?!」とか「その異や如何?」、「そもさん !」と続くような日本人独特の謎掛け、もとい、禅問答風の和風意訳ではなかろうか。

 「什麼生【そもさん】」、当CEO の場合は・・・??「説破【せっぱ】・・・せっぱ・・・せっぱ・・・っぱ」と切羽詰【せっぱつ】まるのであります。

たぶんこれが、(常に鋭いコメントを下さる武兵衛さんをまねて)当CEO の海馬に「哲学や歴史は未来を予言するか?」として残っちゃったのだろう。

渡辺京二氏の「勝手に命名」三部作をまとめる間に、当CEO の灰色に濁った頭脳に脈絡なく浮かんだ事柄を整理してみる回です。 したがい、渡辺京二氏とはほとんど関係はありません 

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 ギリシャ、ローマそれにインド、中国、オリエントなど大まかに宗教がらみの哲学では人間は変わらないためか説教や箴言として歴史の中では予言の機能はあったと思えるし考えられる。

 だが、近代に入ると人間より個人が多くなり哲学の百家争鳴、宗教迷走の時代となったようだ。

 予言が外れた哲学なり思想としては、その筆頭にマルクスの「資本論」が上げられる。

 資本論の示すプロレタリアート革命は資本主義社会の成熟による過程を経て成立するものである。 たとえ、傑出した指導者が導いたとしても資本主義など経験していない社会から成立した自称共産主義国家がマルクスの言う共産主義革命が成功した、とは言えないのではないか。

 主だった(マルクス・レーニン主義の)共産主義国家を列挙すると、旧ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、中華人民共和国、キューバ共和国、ベトナム社会主義共和国などである。

 少なくとも資本主義経済の労働者や生産物から生み出されたプロレタリアートが起こした革命ではない。

 突き詰めれば中世、近世の封建主義経済から発生したのでありマルクスの近代共産主義ではなさそうだ。

 不勉強な当CEO はエンゲルスやレーニンはいざ知らず、マルクスの「資本論」に、搾取者と被搾取者、富者と貧者、加虐者と被虐者がいれば直ちに革命が成立すると書いてある、のかさえも知らない。

 しかし、あろうが、なかろうが、自称、他称の共産革命はできたのである。それも含めて考えてみる。

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 思想に掲げる旗は作れ、指導者も生まれる。 しかし、革命から国家となるとフォロワーとなる人がいなければ成立もしないし動きもしない。 その人とか人民とかがどう行動したのかは歴史でははっきりとしていない。 はっきりしないのならせめて国家となった国民の数だけでもと思いつくがこれもはっきりしない。
 というより外国語で調べる気力もない。以下の展開でほかの国の検証をやってみてね。

 日本語となると明治維新はレボリューションだかイノベーションだか分からぬが日本の近世から近代に変わる時点での基本資料となりそうな文献がある。

近世日本の人口構造」 関山直太朗 1958 吉川弘文館

 近世末期の人口構成は近代の入り口である明治2から3年にかけて版籍奉還のために旧藩に命じて行われた重要統計の中の人別調べから推測できる。 ただし、既に明治政府直轄地となっていた幕府領と旗本知行地の実態は含まれていない。

 この時の人口は 32,794,807人だった。 そこからいくつかの藩を除いて集計した身分別人口は 30,089,401人と集計されており 2,705,496人の欠落が見られる。

 次に政府が明治5年に新戸籍法により調査した結果では人口は 33,131,525人となっている。 前回の2年前の記録より 336,718人増えている。

 これらを大まかな身分別に整理したのが下表となる。ちなみに、この身分別人口統計には家族も含まれている。

 明治維新直後の人口統計(推計)比較(人)
身分 明治3年 明治5年 増減
支配層 1,839,064 1,927,848 88,784
宗門 374,398 292,926 -81,472
平民 27,787,155 30,999,535 3,212,380

・ 支配層には皇族、華族、士族、卒、地士をまとめた。
   明治5年では旧藩大名は華族に参入されたと思われ、521人増えている(大名華族と堂上華族)。
   増加した人口は幕府管轄地の武士階級が繰り入れられたと考えられる。
   卒は仲間、小者等士族の下級家臣や一代限りの士族でのちに士族と平民に分化する。
   明治3年分では皇族(28人)と地士(3,380人)の項はない。地士は名字帯刀を許された有力者。   

・ 宗門には神官・僧尼がある。
   この層のみ人数が減っている。 特に神官の減少が大きく -70,941人となる。おそらく各農村にある小さい神社では兼業や副業で生計を立てており新戸籍法では平民へ移されたのだろう。
  
 ちなみに神仏分離は明治元年と同じ慶應4年からから始まり廃仏毀釈の混乱は明治4年まで続いた。
・ 平民では明治3年分にはエタ、非人、死刑がある。
   大幅な増加分は江戸など幕府直轄の町人、農民の人口を繰り入れられたと考えられる。
   死刑は獄中なのか、処刑済なのか、は分からないが1,066人いた。
   
明治5年の統計では、エタ、非人は平民になり、死刑はない。

 さて、江戸時代の農、工、商の身分は平民となったが、業種別人口ははっきりしない。

明治維新直後の就業人口統計比較(人)
業 種 明治5年 明治6年 増減
15,206,938 15,153,098 -53,840
671,692 688,429 16,737
1,267,401 1,276,864 9,463
1,751,301 1,766,685 15,384
雇 人 300,414 292,885 -7,529
合 計 19,197,746 19,167,961 -29,785

 明治5年の平民の人口に比べて 11,801,789人が消えている。 

 業種別人口は15歳以上の就業人数、戸主は15歳未満でも数えている。家族は含まれていないようだ 。 また、雑(業)や雇人が江戸時代から存在した職種なのか、明治に発生したのかは分からない(後者のように思える)。

 たった1年の違いではあるが農業就業人口の減少が比率順では工、雑、商業への、直接、または玉突き、での職種移動をもたらしている。 漸減していく農業人口からは江戸末期の農業人口はさらに多かったと考えられる。

 いずれにせよ渡辺京二氏が示唆するユートピア人口は 30,999,535人いたはずである、とあげつらうつもりではない。

 身分や職種の人口単位をパーセントで示さなかったのは歴史や統計の中で一人と数える個人には、消えている人や数えられていない人、がいることを示して次の話題に入る。

 徳川幕府の人口調査には除外対象もあり、方法も各藩への委託であり必ずしも統一された方法ではないこと、各藩の意図的な過少、過大報告があることは明治に入っての調査との突合せで解明されている。

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 イノベーションと思える明治維新はどのようにできたのか、を考えて資本論の予言性を考えてみる。

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続く

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2018年12月 9日 (日)

キネマ航空CEO 「渡辺京二氏の(勝手に命名)ミステリー三部作を解説する」 の巻(解決編)

キネマ航空CEO 「渡辺京二氏の(勝手に命名)ミステリー三部作を解説する」 の巻(挑戦編) 2018.12.07

を読んでからの「解決編」のココロだー!

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Photo_2③ さらば政治よ 旅の仲間へ 晶文社 2016.6

 内容は①、②の執筆や刊行の時期に週刊誌や新聞などに掲載された記事やコラムである。

 その中に渡辺京二氏の反マルクス主義のバックボーンとして、1956年(第二次世界大戦終結から11年目)にハンガリーの自立を目指す蜂起に対するソビエト連邦が反革命として大量の戦車と歩兵を投入し鎮圧したハンガリー動乱が契機だったとしている一文がある。

 以下当CEO の余談。 ハンガリーはオーストリア・ハンガリー帝国という歴史上の経緯もあり日独伊の枢軸国側にいたが、国境を接するソビエトの進攻を回避するため連合国側との停戦を図ったがナチス・ドイツ軍に占領されてソビエトとの戦闘を行った。 しかし敗北し、そのまま共産圏の周辺国家に組み込まれた。

 いっぽう第三共和国の一翼であったオーストリアはベルリン陥落後に巧妙な政治外交運営でソビエトの影響を排除して自由主義陣営に組み入れられた。

 いろいろな見方はあるがハンガリーはオーストリアのような自由主義国家への離脱を試みたようだ。 これをソビエトは反革命として進攻したのだが日本国内のリベラル思想にも大きな影響を与えた。 ある意味では日本のコミュニズム、リベラリズム、ナショナリズムの、またそれぞれのイズムの中での、左右の乖離が拡大する契機となったともいえる事件。

 渡辺京二氏は特に日本の共産主義の思想上の浅薄さに気がついたのだろう。氏はこれに対抗できる思想として、日本あるいは東洋の思想ではなくポラン二ーの著書から展開する。

 カール・ポランニー(1886 - 1964)オーストリア・ハンガリー帝国(ウィーン生まれ)、出自はハンガリー系のユダヤ人、カナダで死去。 イギリスやアメリカの大学で教鞭をとるがアカデミズムとは距離を置いていた。 「経済人類学」の創始者として知られる。(ようだ)

 ポランニーの説については②に概要、③の最終章に渡辺京二氏自身が行った大学での講義のテキストが掲載されている。

 恥ずかしながら当CEO はポランニーの著作を読んだことはない。 以下は当CEO が勝手に渡辺京二氏の講義録を解釈して展開するミステリー三部作の解決編であります。

 したがい、誤解、曲解があれば、すべて当CEO の責任であります。

 ポランニーは「近世の絶対主義国家が形成する重商主義市場」と「近代の自由主義国家の形態である資本主義市場」の違い、を「労働力」と「土地」の経済的取引の自由度の度合とみる。

 この説で②ひいては①を顧みると日本は豪農(庄屋、名主)が所有し差配する農民付き土地で成立しており商人の台頭による一次産物の移動で成立する鎖国重商主義といえる国家形態のもとでの大衆のモラルであった。

 近世と呼ばれるこの当時の欧州の重商主義市場は植民地の支配を伴っていたが資本の移動はなく物品の収奪による移送であった。

 資本主義と自由主義の萌芽は歴史的にはさらに遡れるが前者は18世紀半ばのイギリスで蒸気機関の活用から始まった産業革命、後者は広範囲に広がる社会、経済にかかわる古典的自由主義として同時期に普遍化した。

 ちなみに近世から近代への社会的、経済的な大転換とされるフランス革命は18世紀末の1789年からの10年間とされている。 また1848年のパリ2月革命ではいわゆるプロレタリアート革命と称されるが実質は都市労働者と開放農民の抗争でもあった。 政治体制としては失敗に終わっている。 マルクスらの共産党宣言が出されたのもこの年である。

 共産党宣言が最も高揚したのは1871年のパリ・コミューンの時代と思われる。普仏戦争の敗北の中で始まった初めての(資本主義というより自由主義の精神的な)プロレタリアート独裁による自治国家の模索の時代が、国際情勢と国家としてのフランスの中で生じる組織の内紛と国家内体制の覇権抗争で多くの血を流し、流され、て潰(つい)える。(当CEO は大仏次郎の「パリ燃ゆ」の抜粋を読んだだけですが)  

 19世紀に入り資本主義は中世のしがらみがないアメリカで奴隷労働力による国内の一次産業から二次、三次産業へ、さらには金融資本主義へと国内外の市場経済に拡大変容して行き、付随並行するもういっぽうの自由主義の変容は20世紀半ばで日本ではリベラリズムと名を変える。

 部外者には分別も難しい共産主義と社会主義も概念の起源は古いが直接の系譜はフランス革命の申し子であり19世紀半ばのマルクスとエンゲルスの「共産党宣言」による共産主義が資本主義、自由主義の対抗軸となる。

 ちなみにマルクスの学者としての業績は「資本論」であるが1867年の第一巻、1885年第二巻 1894年の第三巻からなる。 ただし二巻以降はマルクスの死(1883享年64)後に草稿をエンゲルスらによって編集されて刊行された。 共産主義革命への考察は第三巻にある。(以上当CEO の余談)

 さて19世紀半ば、世界が近世から近代へと潮目が変わる時空(とき)に日本は政治のイノベーション(維新)を行った。

 この明治維新で農地に縛られた「労働力」の取引自由化が行われた。 解放された労働力は近代の二次産業と軍事力に向かい出遅れた植民地重商主義国家を目指すことになる。

 その結果として先行する自由主義の申し子である列強資本主義と対立し昭和の敗戦となる。

 そしてとどめの転換点として、この敗戦により、米国が主導する占領軍総司令部(GHQ)はポランニーを意識したのかどうか、小作人付農地を庄屋・名主から解放し「土地」の取引自由化が行われた。

 渡辺京二氏の言う「平和と安息の世界」となる二つの基盤がここで途絶えて「逝きし世の面影」を懐かしむのみとなった。

 すなわち①の世界の再現などない、・・・と。

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 渡辺京二氏は狷介不屈なリアリストでありニヒリストのようであります。

  ニヒリズムというと虚無主義として日本や西洋では反社会的なイメージ(日本では現人神としての天皇への不敬、特にカソリックではキリストへの侮辱)が強いが、ニーチェの目指す本質は生き方の規範として消極的(なりゆき任せに)に生きるか、積極的(主体性をもって)に生きるか、のどちらのニヒリズムを選ぶかの問題であります。

 その根底にある虚無とは宗教の束縛から離れた(日本人には輪廻転生でなじみ易そうな)永劫回帰(であるがそれとは違うような)のもとで創造的に生きることで超人(「悟りを開く」のかいな)を目指す前提であります。(と、まとめた当CEO 自身は「ツァラトストラ(超人)がかく語った」のを聴いても良く分からないのではありますが・・・映画「2001年宇宙の旅(2001: a space odyssey)1968」で暗闇だった画面に映像が始まり太陽、月、地球が直列、つまり皆既日食のシーンに流れるアレであります)

 渡部京二氏の宗教観はさておき、水俣病公害に積極的にかかわり、厚生省への座り込みを行い、教条主義に傾く運動から離れ、気難しそうな石牟礼道子氏の活動を最後までサポートしている。

 考えようによってはいずれもニヒリストだからできるといえます。 これがモラリストだと八方美人となって途中で投げ出すか、何もできなくなるか、原理主義者(ファンダメンタリスト)となって周りを見なくなるか、になってしまいそうだ。

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 渡辺京二氏の著作①②③をピックアップし三部作のミステリー仕立てにして解説してみた。 氏の書物の構成は主旨や読み解きのヒント(ミステリーで言えば伏線)は前書きや後書きに現われている。 つまり章立ての内容は氏の思考の過程あるいは読者や学生への文書の読み取り力の知的教育テキストとして読む文章であります。

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 特に③は①②に比べて読む人は少ないようだがミステリー三部作のレジュメは③の前書きにある。 大所高所の歴史がどうの、哲学がどうの、ではなく変遷する時代という歴史の中で個人としてどう生きるか、の指針であり、三部作はビルドゥングス・ミステリーと読めます。

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 とは言え、まだミステリーは残るなー by キネマ航空CEO

2018年12月 7日 (金)

キネマ航空CEO 「渡辺京二氏の(勝手に命名)ミステリー三部作を解説する」 の巻(挑戦編)

10月半ばより11月にかけてキネマ航空CEOオフィスを飛び出して市井の歴史学者渡辺京二氏の著作3冊を読み通した。

結構な時間を費やしたのは何を書いているのか、なぜ書いているか、が分からなかったからであります。

つまりは、三作を通して必読の上中下巻のミステリーだったのです。

で、・・・まず当CEOが渡辺氏の労作を多少逸脱しておちょくります。

つまり読者各位は、長いけれど当CEOに対し異議異論を挿み込めば分厚い書物も読み易くなるのではないかと希望を抱きながら。

なお三冊中の①②は中山間地に住む篤学の士から課題図書として、③は市立図書館から借用しました。

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Photo① 逝きし世の面影 平凡社ライブラリー 2005.9 (初出 葦書房 1998.9)

 徳川政権の末期から明治時代前期にかけて来訪した異邦人の宣教師、外交官、商人、軍人、医師、教師、冒険家が記した報告書、旅行記、日記、関連する著作などから彼らが観察した同時代の日本人の美点を分析し十四章に分けて独特の文体で列挙する。

 異邦人(とつくにびと)がここまで日本を「平和と安息の世界」と言ってくれるのだから日本人なら悪い気はしない。

 しかし、幕末から明治であっても異邦人が自由に行動できたわけでもあるまい。 言ってしまえば中国、北朝鮮に限らずどこかの国に招待される記者たちと同じだろう。

 もちろん文献の中には彼らから見た負の印象も記録されている。 これに対しては著者の文体に取り込まれた別の異邦人の記録の解釈を展開して否定される。 明治に入ると外国の知識を得た日本人の文章も提示され補強される。

 でも、このままでは外国人に「ニッポン スゴイデスネー」と語らせ日本人に「日本! 最高ー!」と信じ込ませる今日(こんにち)全盛のTVプログラムのひな型でありますね。

 それに、対象となった間にも「平和と安息の世界」らしからぬ飢饉、一揆、騒動、擾乱(変)があったはずだがこれらは著者に軽くいなされる。 

 著者からは「たとえ一側面にすぎぬとしても・・・このような幸福と安息」の時代を「忘れたくない」。 「暗い側面をあげつらうのは批判者にゆだねよう」、「なぜなら、もはや滅び去った文明なのだから」、と批判者となりそうな読者を封殺し・・・いや、むしろ挑発し、誘導して本質に向かわせている・・・と思いたい。

 当CEO オフィスご常連の各位には、まずこの本を買ってでも、借りてでも、ぜひとも当CEOのこのレジュメに反論してください。待っています。なお、当CEO に同意するコメントは一切不要です。

  さて、「たとえ一側面」、だとしてもなぜこのように総括できる時代が成立したのかはミステリーのままです。

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Photo② 日本近世の起源 洋泉社新書 2008.2 (初出 弓立社 2004.2)

 「戦国乱世から徳川の平和パックス・トクガワーナ」と副題が付いており、謎を解くことができるかもしれません。

 本書では①で提示された著者の定義する「文明」への過程が十章にわたって展開される。

 第二章「乱妨狼藉の実相」 ここでは、①では描かれなかった実相が述べられている。

 戦闘状態とその前後について回る大量虐殺、殺人、傷害、略奪、放火、稲難・麦難(収穫阻止の戦略上の破壊工作)に加えて日本の内のみならず大陸や半島の婦女も含む人身捕獲、移送、売買、輸出、などが付随していた。 婦女に対する強姦も当然含まれている。

 弱者が強者から受ける仕打ちの列挙であるが、同時に弱者が強者にまた逆にオセロゲームのように入れ変わる強弱の相対関係の実態も指摘している。

 当CEO の余談ではあるが、今を生きている我々は、この時代より遅れた渡来人でなければ、生き残ったこれらの強者か弱者かあるいは両方を経験した子孫として日本人を名乗っていることになる。

 (乱)妨【(らん)ぼう 】は乱暴と同義である。 中国において「妨」の原義の《さまたげる》から《そこなう、害をあたえる》と転意したようだが、なぜ「女」偏なのかは不明。

 一例として本書の中で「(中世においては)従者を伴わない(あるいははぐれた)女性の旅は「性」の提供を伴っている(女捕り【めとり】という普通名詞で表されている)」と言及されている。 森鴎外の『山椒大夫』は物語ではなく事実が前提となっている。 

 これが①のなかの異邦人の記録では女性の一人旅が可能な国と驚かれている。

 なぜこのような「ユートピア」が成立したのか、しえたのか、を全十章に序章、終章、二つの後書きを加えて考察されている。 

 そして「ユートピア」が成立した①の時代は、立法、行政、を司るための警察権、司法権は藩(幕府)にあります。 何かの法令に違反した場合には農村から藩へ犯罪者として差し出すあらかじめの人選が行われていたり、一揆や騒動には藩として要求を忖度するが一揆側の代表者数人を死罪として決着することで社会が維持される時代でもありました。

 もちろん、現代の制度からは人権団体がいきり立つでしょうが、これが多数の平穏のために受け入れられている社会でもありました。

 ではどんな国だったかを要約をすると、幕藩体制、士農工商の身分制度なのだが・・・ 土地を所有する名主、庄屋と土地着きの農民による農村の制度の成り立ち、特に名主や庄屋の成立過程、そこから生ずる徴税権を行使する立法と行政の官僚集団である幕藩と農村との関係を含む身分制度の融通性が指摘されます。

 そして①で描かれるのはその官僚集団が担う必要がなかった外交と国防に苦闘する中で「ユートピア」が消えていく時代の挽歌である、とまとめられます。

 さて、ミステリーのネタバレはご法度であります。 ただ、あとがきや解説を読んでから本編に取り掛かる読者もいるようですので・・・

  渡辺京二氏は中世から近世への過渡期の武士集団である守護大名や群雄と農民を含む宗教集団との戦闘を農民蜂起とする唯物史観を徹底的に否定します。

 戦国時代の資料から得た多くの二次文献では虐げられた弱者(敗者)が挑んだ「農民蜂起」として解釈して、敗北までの束の間の平和を農民大衆の勝利として共産主義的な唯物論に沿って解釈している。

 しかし著者は、敗者の内部にも勝者と同様な分化された階級層は存在しており、資本家と労働者といった一対一の階級闘争ではなく 270年に及ぶ「パックス・トクガワーナ」の成立に集約される勝者と敗者の合意形成過程と解釈すべきである。 いわゆる共産主義的階級闘争では決してないと主張します。 

 なぜこのような「ユートピア」ができたのか、①に続けて、この②を読んでいただきたい。

 さて②でも別のミステリーが浮かび上がります。

 「ユートピア」の成立過程に深く語られなかった(実際は終章で語られているのだが)工や商にかかわる人々は?

 そして、なぜ渡辺京二氏はマルクス主義を嫌うのか?

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Photo_2③ さらば政治よ 旅の仲間へ 晶文社 2016.6

キネマ航空CEO 「渡辺京二氏の(勝手に命名)ミステリー三部作を解説する」 の巻(解決編) 2018.12.09

に、つづくのココロだー!

 

2017年8月14日 (月)

キネマ航空CEO 梅原猛の原点に挑むが・・・横溝正史の作品に思いをはせるの巻

 古代史の先達から先回の論文『水底の歌-柿本人麻呂論 (初出1973)』に続いて梅原猛氏の原点となる「『 (上、下)』 1980 集英社文庫」を貸していただいた

___2初出は1970.1 から 1971.12にかけて芸術新潮に24回連載された「エッセイ」をそのまままとめた作品であります。(同名単行本 1975 集英社)

この連載から深化した作品が「『隠された十字架  法隆寺論』 1972 新潮社」となるようですが当CEO は未読。

 さて、本書は古代日本仏教の勃興史であります。

水底・』のような言語上の思考ではなく、塔、仏像、壁画、寺、神社、奉納歌舞などの具象を分析した芸術論的古代史論である

 しかし、これでは、そんなに読みたくなる「帯」(腰巻きとも言う)にはならない。むしろ、・・・

聖徳太子」の血脈の抹殺に始まる太子の祟りを縦糸に、
新興仏教と古来神道との狭間に勃発した人間の欲望の覇権争いを横糸に、
兄弟間譲位と女性天皇の擁立が織りなす時代の皇室をめぐる姻戚と相関の(性的関係を含めた)関係を解き明かし現代につづく、
水底・』に先行した壮大な 論文 ! ではなく エッセイ ! ! です

・・・であります。さて、下巻の巻末に西暦239年から1697年までの1559年間に及ぶ年表がありますが実質は、次の200年を掛けた国家仏教から仏教国家への萌芽完成まで、の足かけ3世紀です。(その仏教国家完成から崩壊までには1100年が必要でした・・・とは書いてないけど)

552(538説もあり) 仏教(仏像、経論の)公式伝来
574 厩戸皇子(うまやどのみこ)のちの聖徳太子生まれる
585 2月蘇我馬子仏塔を立て斎会を説く
      3月物部守屋中臣勝海ら仏像仏殿を焼く
587 聖徳太子(没後の尊称だが便宜上)四天王寺建立の発願、馬子法興寺建立発願
591 法興寺起工
593 聖徳太子摂政となる。四天王寺起工
622 2月聖徳太子薨ず
643 11月蘇我入鹿聖徳太子の子山背大兄王(やましろのおおえのかみ)一族の殺害
      参画氏族の中に中臣塩屋連牧夫(なかとみのしおやのむらじまきふ)
      のちの藤原氏の始祖
645 6月乙巳の変蘇我氏滅亡、「大化の改新」
 ・
 ・
663 (半島の白村江の戦いで敗北)
672 壬申の乱。皇位は天智天皇(兄)の継嗣大友皇子より天武天皇(異母弟)へ移る
 ・
 ・
 ・
712 古事記成る
720 日本書紀成る
737 藤原氏四兄弟相次いで天然痘で死去
739 (別資料では737)聖徳太子一族の住居址に救世観音像を安置する夢殿建つ
743 大仏建立発願
752 大仏開眼供養
(なお、表示の月は太陽歴なのか陰暦なのか当時の中国暦なのかは不明です。)

 この間、 562年に半島では任那の日本府が新羅に滅ぼされ589年大陸では隋王朝の成立600年遣隋使の初回派遣603年新羅への征討出兵中止618年隋に代わり唐王朝の成立630年遣唐使初回派遣663年半島の白村江で唐・新羅連合軍に敗北668年唐・新羅により高句麗滅亡、新羅による半島の統一・・・。

     と対外関係も忙しい時代で、公の遣隋・遣唐使に加えて技能難民や労働力難民の流入、帰化人による技術、芸術など大陸文化の系統的な吸収ができた時代でもあったようです。(大化改新後に防人(さきもり)などの九州沿岸への徴兵動員がおこなわれた。それ以前の半島進出については倭(やまと)朝廷が長(おさ)を派遣する在外組織なのか両岸の部族間の関係なのかは判然としないが物資や文化の交易をおこなう倭朝廷寄りの部族の保護のようだ)

     幸いに後半の100年弱は半島からの撤収に加えて大陸情勢も唐王朝が安定しており、半島の新羅との両睨みの北九州海岸線防衛ラインの構築の中で奈良文化も大陸的から日本的なものへの咀嚼が落ち着いて行えた時代と思われます。(この時代に記紀が成り、万葉集の編纂が始まる。先の(任那)「日本府」の固有名詞は日本書紀にて初出。いくつかの暗殺や武力抗争があった。658から660年にかけて東北の蝦夷などの部族への侵攻が始まる。決着は平安遷都後の、坂上田村麻呂、阿弖流為(あてるい)伝説に・・・)。

     内政は、といえば、国家統治の規範を仏教に置こうとする有力氏族蘇我氏と皇位継承血脈にいる皇族である聖徳太子の仏教推進派と対立する他の皇族を擁したその他大勢派の氏族との政争を制した聖徳太子没後の天皇の座をめぐる抗争で、中臣氏はまず、かつての親の代では同盟関係であった蘇我馬子の子入鹿太子の子である山背大兄王の離反を図り聖徳太子の(いわゆる皇統の)血脈を断絶させ、その2年後の大化改新に先立つ乙巳の変入鹿らを殺害して太子以前の時代からの旧勢力の筆頭だった蘇我氏の権勢を一気に没落させます。

 年表の585年を確認ください。中臣藤原)氏のこころの内に分け入ると、氏族間の憎悪なのか義憤なのか、対象は仏教なのか政(まつりごと)なのかよくわからぬが(権益であることは間違いない)長年の諜略と一瞬の暗殺で政権の奪取に成功した時代でもあったのであります。

おおっ!梅原師見てきたように語り出し・・・がのり移ってきたゾ

 そして、藤原氏はその後の後宮との姻戚関係、不遜不倫関係を巧み(といっても蘇我氏だってやっていた)に構築し政(まつりごと)を手中に収めるのですが、その中で一族を襲った不幸を、殺したわけでもない(殺したんじゃないのかな ? 説もある )聖徳太子の「祟り」として仏教を利用した鎮めをするために西洋にはない日本美学』の建立を続けた・・・という論旨の展開と読めました。

 ただ直近では、協力したのちに殺された蘇我入鹿も恨んでいるはずなのだけどね・・・でも黒幕中臣氏聖徳太子を含めて山背大兄王一族の殺害“実行者”に対しておこなった口封じを兼ねた直接実行氏族への復讐の処罰だったら『祟り』はないよねー・・・と数代下がった子孫の藤原氏になっても感じられるということのようです。

 「祟り」も、「祟る」側と「祟られる」側の地位身分、あるいは人望の相対関係で「祟られる」側の勝者としての感じ方次第なのでしょーね。これぞ日本 ! ?

 梅原説はさらには塔の内部に施された壁画、仏像の装飾がおどろおどろしい世界を再現してくれます。さすがに地霊、怨霊には敵わないらしく年表の続きとしておまけの42年で
 ・
 ・
(783 万葉集の編纂終わる。開始年不明、600年代後半)
(794 平安京遷都)
   ・・・と(正確には難波宮などを含み)呪いや祟りで転々とした都の総称としての奈良盆地から長岡京を経て地形の似た平安京への恒久避難となったのでしょうね。藤原氏はこれから400年近く政権の中枢に留まります。この間の祟りはどうなったのかは当CEO 浅学につき分かりません。

 さて今回は形ある物体からの梅原氏の思考の展開ですが具体的なこの時代の『』の建設となると為政者ひいては施工者の思惑がどこまで反映できるのかはよくわからない。

 少なくとも、切妻、寄棟、高床といった旧来工法では、施工者がこれくらいの大きさでといえば棟梁の差配に従って材木の調達から現場での加工組立ができる。

しかし、この時代に始まった大陸起源の複雑な仏教建築となると工程の分化が必須となる。

 外観内観の意匠と構造決定の工程はおそらく同時並行で行われ、そこから個々の構造部品を作るには多くの部品図面や指図書に起こす設計集団が必要となる。

 加えて部品の加工、組立の人工と工数とその工程順序の管理といった施工集団が存在する。この二つの集団は運搬労働力を除き多分一体の集団であったと思われる。この中に渡来人の集団と旧来(倭)工法の集団があったはずだがそのあたりははっきりしない。
余談ながら木材の伐採、輸送、集積、仮加工、寝かし(エイジング)といった木材ビジネスもこの時代に生まれたんだろうな。

 もちろん建築全体を構成する木工や石工のほかに木彫、金物といった現在では装飾品と分類される技能集団も独立して存在していたのだろう。

 この時代の「」が梅原氏や多くの有名無名の人々のこころをとらえるその『』は『外観内観の構造の意匠』で決められているのであり、施工主となる中臣・藤原氏の意識に外観内観の細部に対する梅原説が提示する意図がそのままに入っているかには疑問がある。

 そのため梅原氏は高さとして指示できる「」に着目したのだろう。しかし、これだけで梅原氏の施工者意志説で提示された細部の意匠(具象)の証明になるのかどうか。

 もちろん細部の具象コンセプトについてもまだ発見されない文書や絵で詳細な中臣・藤原コンセプトの要求が行われたのかもしれないが、その再現のすべては構造で決まる。

 むしろその時々の塔建築を請け負う集団がその時々の工夫を凝らして無二の「」を設計し、建て上げて、施工主が気に入らなければ壊されついでに殺されて、といったところではなかろうか。たぶん彼らの身分では施工主を祟ることもないだろう。

 施工主は気に入れば内装に金を掛けて己の世界の構築はできる。またその意向も建築よりは伝わりやすいかもしれない。梅原氏の筆はここでは怪談めいた鬼気迫る筆致で畳みかける。

 737年以降に法隆寺夢殿に封印されたという聖徳太子を写したとされる救世観音菩薩(木造観音菩薩立像)は、正面のみの空洞(要するに最中の皮の表側の片割れ)で動き回るための足もなく、御仏を示す光背は釘で直接頭部に打ちつけられて「人間でなく怨霊」の聖徳太子を呪詛する目的である、と。

 怨霊も足で移動するのか ? 足をなくすれば出る場所が決まっている(はずの)地縛霊に貶めたのか・・・この説では時代考証の錯誤感もあるけど新説にはなりそう。

 さらに浅学のCEO ではあるが、釘打ちの呪詛は『生きている相手』を模した藁人形や人型に打ち込まれ、イエス・キリストも生きているうちに釘で十字架に磔にされた。ドラキュラ伯爵は呼吸していないようだが眠っているところに釘の代わりに杭を打ち込まれているんじゃなかったっけ。そもそも既に死した者の怨霊に「釘」の効果があるのかね・・・となる。

 光背と頭部を結ぶ構造も釘の形状も説明されていない。どんな釘なんだ?むしろ光背と観音像をつなぎ一体となる構造の意味もある・・・観音像を動かしたら光背がとり残されて御仏の慈愛が消えちゃったってこともあるんじゃないか・・・

 まあ、呪詛の方法の諮問を受けた取り巻き文化人のブレーンが困り果てて出した案を、藤原氏には「やってみる」ことは「やってやる」と進取の勇気があるのでやってみた。

 しかし、ご利益がないもんで白布にまかれて人目を避けて隠ぺい放置されていた・・・と、梅原説につながるのかもしれないが・・・、

 肝心の観音像を包んだ白布の汚れや埃を含めた科学的分析はなされていない。梅原氏は西欧の「聖骸布」のようにあからさまにはしない。これもまた日本、なのかもね。

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 こうした呪詛は怨霊の祟りに対する女性の恐怖心が深くかかわっていると梅原説では強調される。

 どうやって祟りから呪詛への過程が進むのだろう。そもそも100年近く後の女性が祟りの言われをどのように知るのだろう。記紀を奉ずる公家、神職からか、かじった僧侶からか・・・
神仏習合と反発もこの時代から延々と始まった。そして、明治元年(1872)の神仏判然令で公式に神仏分離とされて、仏教《が特に庶諸民に対して権威もしくは拘束力を持った》国家の末期期に入った/閑話休題)

 予算が必要な呪詛建築の施工には男性の分担と考えられるのだが、下品な当CEO はさらに考える。こうした謀(はかりごと)の発端はどこで行われたのだろう。

 昼なのか夜なのか、広間か寝室か、家政婦は見たのか、宮中や公家の屋敷の間取りや奉公人の数は、上下の食糧献立事情は、人口や職業、都市や村の構成や経済は、行政機関の構成は、租税の徴収は、予算の案や執行は、芸術家集団の存在は、といった時代背景があってこその梅原説と思うのだが古代史の背景解明に梅原氏は古代史の著作の印税を使って影の貢献をされたのであろうな ・・・と、つい余計なお世話を思ってしまう。

 せめて「」を一基建てる費用の収支出納ぐらいは氏の下で解明してほしいものです。ただ働きで古代日本の文化を作るのが日本人なのか ? 帰化人もよく我慢したものだなー。

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 さて、描かれる「家系図」と「時系列人物行動表」とくるとこれらを駆使した横溝正史の名探偵金田一耕助を思い浮かべる当CEO であります。《迷》探偵のようでもありますが人間の始めた行為を押しとどめることもなく最後まで見届ける仏のまなざしのようでもあります。

 「犬神家の一族」では戦後の財閥解体、「悪魔が来りて笛を吹く」では華族制度の崩壊、「獄門島」や「八つ墓村」、「悪魔の手毬歌」では村社会の戦後史とも家族史とも、戦前が背景となる「本陣殺人事件」では格式のある家族の中の男尊女卑に潜む屈曲した潔癖倫理など、当CEO の世代にはフィクションでそれぞれの時代を映し出していると感じられる。しかし、残念なことに今では「オワった コンてんつ」と片づけられるのだろう。

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 繰り返すが梅原説はなまじ学際的なアカデミズムをまとっているだけに個々別々の分野の古代史を総合した中での再評価が必要と思われる。 梅原説の解説本が待たれます。

 まあ、当CEO も多感なころに梅原説に接しておれば古代史の迷路に紛れ込もうとしたかもしれない梅原氏の情熱は強く感じますが、今が当CEO にとっての読み時と思えます。

 『聖徳太子の祟り』と『藤原氏の呪詛』の相克が日本国の骨格形のない精神をつくり、時代時代の肉付けがされてきたという梅原説を否定するつもりは更々ない。

 が、先に挙げた二点の論考の視点であり始点となる美学的解釈部分を外すとエッセイ自体は『一般人読者が感じる権威感(パンピー・アカデミズム)』は消える。

 特に後者の具象の説明自体は資料読み解きの誤解であると、専門分野からは否定されているようだ。しかし、梅原氏はこのエッセイや関連著作での修正もしくは注記の付与をされるつもりはない(完全黙秘の)ようです。

 そして今なぜ、この本が当CEO の手元に現われたのか、と考えると、

『前振りの間違いぐらいで挫折するな!』
『間違った前振りで提起した論旨の先の真実が必ず出現して過去の前振りをかすませる!!』・・・
日本人論的精神論のなかでは「初志貫徹」 >>かなり大なり君子豹変」の価値感の間で振れる一つの解を日本人らしく行動で示してくれているのかも知れぬ・・・なー。

 と、思いながらも当CEO は若き日、日本国自体を含めた若き時代の心情的リベラリズムの限界をプチ豹変させる模索をしている最中です。

 紹介してくださった先達さんありがとうございます。これからもご指導よろしくお願いいたします。

2017年5月31日 (水)

キネマ航空 CEO 「水底の歌-柿本人麻論」からいにしえ(古)をおもふ・・・ついでに「やすらぎの郷」を考える

人生の一時期に多少の時間の余裕ができ新しい知人との交流が始まるのは二つとない幸運である。

当CEO が住む町中から峠を二つ三つ超えた、住むにはそれなりの苦労はあるのだろうが桃源の地にその一人の篤学の士が住まわれる。

ほぼ三か月前に士から特に説明もなく微笑みながら渡された本をやっと読み終えた。

Song_of_water_bottom_1 Song_of_water_bottom_2梅原猛の「水底の歌-柿本人麻論」上下で900ページ弱の文庫である。初出のハード・カバーは1973年であるから当CEO は社会人となっていた。

当時の書評欄では、正確な記憶ではないが内容の要約と、ジェット・コースターのような論文である、といったようなものであったが未読のままである。

新目(あらため ?)て読む機会を与えていただいた論文(梅原氏自身が文中にそう書いている)が文学系出版社の文庫本になるということは?と思いながら読み始める。

篤学の士が黙って渡してくれた理由とはまったく異なるのだろうが・・・これが意外と今現在の世の中を映し日本が返るべき姿を示唆しているように思えてくる。

論文の内容は万葉集の歌人柿本人麻(呂)の「人物」論というより「存在」のプロファイリングである。勿論インタビューはできないから書誌学もしくは文献学と呼ばれる手法が使われる。

対象は手書きであり検証するための比較対象も時の数寄者に再編纂、再編集された異本や国学者の解釈の手書きが残るのみであり通覧すべき一群の原本も散逸されている。また写本が原本と同じどうかの検証も困難な場合が多い

さて、梅原氏は、認知度では大勢を占める(エスタブリッシュメント側の人物)斎藤茂吉、賀茂真淵といった先人による解釈ばかりか、もはや反論できないご本人たちに容赦のない攻撃を加える文体で始まる。

そのあとは、彼らが引用したり無視したりの書誌文献に加えて伝説、伝承を駆使して解釈を改めて原本に戻り推論を立てる。「だろう」から始まり「と思える」、「考える」を経て「違いない」と畳みかける。元は雑誌の連載のようでこのパターンが主題を変え相手を変え文献を変えて延々と繰り返される。

そのうち漢文、古文、万葉仮名など難解な個所を読み飛ばすコツを体得すればまさに悪酔いと快感のジェット・コースターの気分になれることを請け合います。

科学、特に工学と重ねると書誌学による結論の真偽を判定することは極めて難しい。その工学にしても想定外も想定を間違った想定の内となることが証明できるはずであるがなぜかこの国では行われない。

さて、当CEO がこの本でおもひを致したのは論文として示された結論よりも論考の背景となる真の闇があった時代であります。

この本でも「怨霊」の「祟り」と「鎮魂」が幾度か繰り返されます。

思ふに「祟り」は祟られる側(一般に勝者もしくはエスタブリッシュメント側)の受け身の言葉でこれが息づいていた時代であります。

では、敗者または否エスタブリッシュメントの弱者側の言葉では、となると積極性のある「呪い」となるがこの本では出てこなかったと思う。

記紀に絡めとられた弱者には「呪い」さえ認められていなかったのかもしれない。

いや記紀を統べる強者の階層はあまたある「神」をも含めた同じ階層の「祟り」は認めても真の弱者の「呪い」など、はなからないものとしていたの「だろう」。

西洋思想に対抗する「現代の」日本思想の復権は「大和魂」、でもなく、ましてや「武士道」でもない。なかんづく、「呪い」の復権である「と思える」。

倉本聰氏の最新作「やすらぎの郷」を参照しよう。

TV局の社員以外でTV界に貢献した者だけが入れる無料老人ホームの中の有料のバーで・・・

恒例の誕生パーティの参加者が同じ入居者の二人だけとなり中止したら古くからの付き合いのあったホテルから高額のキャンセル料を請求される。

しかし、当てにしていたご祝儀がなくなり払えなくなった自分に落ち込む人気女優だったお嬢(こと浅丘ルリ子)と、慰めているのか呆れているのか、気は合うが口の悪い個性派女優だったマヤ(こと加賀まりこ)。

もう一人の参加予定者、伝説の女優で最長老の姫(こと八千草薫)が嘆くお嬢に「私だって人を呪いたくなることはあったの。これは実際に効果があったのよ」と「ナスの呪い揚げ」の儀式を伝授する。(・・・場所は変わって姫のコテージへ)

タスキ掛けにスッ、スッ、スッ・・・スッ、と皮に刃を入れた長ナスのへたをスパッと切り落しそこに割りばしの先を鋭くとがらせた串を呪いを掛ける相手の名前を叫びながらブチューッと刺し、チンチンと煮たぎる油の鍋に突っ込むのである。ジューッ、グツグツ・・・グツグツ・・・

     よい子の皆さーん ! 「人を呪わば(うなら、相手と自分の墓)(を)二つ(用意してから)」という、教えもあるよ。祟られる側から先手必勝で「呪い返し」もあるぞ、と人を使って仕掛けてくる予告ともいえそうだけど。
     一方、書誌学になぞらえれば語源は仏教かららしい。仏教にも似た加持祈祷の儀式があるがこれは「祈り」であり断じて「呪い」ではなーい!という新興(密教)仏教の古来(エスタブリッシュメント)神道に対する挑戦である、なーんて。
      これらに関連する書誌は自分で探してね。書誌学は些細な想像から始まります。
(閑話は休題)

さて、384人を揚げるつもりのお嬢は、「揚げたら全部食べるのよ」と姫に言われて30人に絞ったものの「とても食べられない」と弱音を吐く。しかし、姫は「一口でいいわよ」といたって柔軟である。(追記:指定のタレは生姜醤油。姫は山葵でも辛子でも柚子でも良いと言うと思う。山椒の振掛けも旨そうだ)

シャーマニズム的な儀式だから、日の巡り、月の満ち欠けの暦も関係するようだが姫は細かいことは気にしない。適当に選んだその当日の丑三つ時になってにぎやかに始まる・・・

ところが翌朝のニュースで30人の中の一人が路上で亡くなったと報道される。時間を再現すると叫んだ時間に重なる。さすがにうろたえるお嬢とマヤと参加した男たち。

しかし、姫は「偶然!そんなことが現実に起こるわけはない!」と毅然として言い放つ。

どうです、交渉では勝てない日本の外務省は秘密の「呪い処」を作るのです。言い負かされたり手ごわい相手の名前(ボクネンジーンとかトンナンチーペーとかDDTとかハナカーラ・チョーチンとかスパッと一発キンチョールンとかムーンウォーキンとか)を入れて叫ぶのです。スッスッ、スパッ、何某ーッ、ブチューッ ! チンチン、ジューッ、グツグツ・・・

相手には見せぬ手の内の儀式を伴った日本の文化的交渉術です。「呪い」が「祟り」になっても西洋文明では「そんなことが現実に起こるわけはない!」のであります。ん?? 東洋人にこの理屈は通らないか?もう、相手にやられているかもね・・・同じ東洋文明だもん。

昔の日本に戻れ!」と叫ぶ声は「明治維新に戻れ!」と等価のようです。冷静に歴史を見れば「西洋の衣を新調した明治維新」は大正時代を超えて昭和の太平洋戦争の敗北で終わるのですがこれを繰り返すのはいかがなものか。

東洋に限らず大体の政権の施政手段は梅原猛氏の描いた時代と重なる。さすがに今の日本では死を求めることはないだろうが人格攻撃で生きた屍とし文書も言葉も調査する前にすべてなかったことにする。

こうした人事や施政を繰り返していると敗戦を終戦と言いかえる「西洋のシステムの衣を纏わされた日本の心」を抱えた権力は、ないはずの「祟り」が怖くなるの「だろう」。もっとないはずの「呪い」の「共謀」のほうが、もっともっと怖い「と思える」、いや「考える」。そうに「違いない」!

繰り返す歴史の中で、たった十七音を「呪い=祟り」として共謀をでっちあげるような京大俳句事件も再現されるかもしれない。

そうならないように日本精神を謳う国家はまず(もちろん限界は必要だが)呪い」の自由化を立法すべきである。そして「呪い」は「祟り」ではない。「祟り」は「祟り」として「己から始まる」ものとして正しく受け止められる国家であれ!政治家であれ!官僚であれ!

あるべきだ!うーっ・うっ・うっ・・・「今は明るい闇の世だ」、「鶴田浩二だ」、「『傷だらけの人生(YouTube)』だ」!歌詞 はこちら

はぁぁ----------------------------------- (しばしの沈黙)

ん!なんのブログだったっけ!?

ああ、書評だったことを忘れていた。(推理小説あるいは二時間サスペンスのあら捜しに慣れておれば構成自体が何となく怪しげに感じられる)この書(論文)は少なくとも論理の書というより感覚を刺激する書であります。梅原猛氏が歌舞伎の台本をいくつも創作されたことはむべなるかな、であります。

論文としての証明展開に自家撞着があるという具体的な指摘内容(クエッション・アンド・コントリビューション)に対して梅原氏からは開き直りに近い「論点ずらし」で終わらせたままで版を重ねている・・・

梅原氏も弱点として認めることになるミッシング・リングを創出できれば歴史エンタテイメント小説の原案としては面白いのだが、氏がこの「論文」で後年の文化勲章への一里塚に立ったことでは、論争相手を国文学者で知名度のある益田勝実氏 一人に絞った手法など哲学者として弁証法を熟知した氏が「書誌学上の破たん」 を承知した上での意図的なライフワーク・シナリオの一部だったのかもしれない。

論争資料
(1)(2)(3)
上記の3文献はWEB から削除されたが図書館では読めるはず。(2018/3/9追記)
(1)岩波書店刊雑誌『文学』1975/4 「文学のひろば」(人麿=佐留説の自家撞着) 益田勝実
(2)同 1975/10 「水底の歌」のアポロギア--益田勝実氏に
(3)同 1975/12 アポロギアとアポリアと--梅原猛氏に

梅原氏が相手にしなかった例は こちら 。梅原説支持論は こちら 。
本体よりこれらのインテリの喧嘩のほうが面白い。梅原氏はなかなかの喧嘩、いや論争上手であります。

) 「書誌学上の破たん」: 歴史を含む書誌学、文献学では客観的な「真実」などはなく、どのみち「新説」から始まる「通説」ないしは「定説」しかないこと。
   「新説」の中には無視というより抹殺される「異説」になることもあるとは承知したうえでなお、当CEO は主観的な「真実」は(論文のような論理とは)別の問題であると考えています。当CEOのブログは「珍説」ですが何か?

   
もちろん「破たん」は、「科学」、特に「利便」とともに身近に「実害」を伴う「工学」でもいえることではあります。ある条件付きの「定説(理論)」を「真実」としながら「想定外」、「未曾有」の言葉の担保で「実害」を「確率」の範囲の内、外、として既定の「真実」をカバー(蔽おうと)する人類の知恵といえないことはないのですが・・・。

書誌学がベースの歴史エンタテイメント小説の草分けとしては英国のジョセフィン・ティによる「時の娘 The Daughter of Time (1957)」があります。小説としてはこちらの方がすっきりとした構成であります。英国の歴史に興味がなくても、こちらも読むべし!

こちらも併せて再読することで篤学の士からは歴史の見方を改めて思い出させていただいたようだ。感謝。

2016年11月 9日 (水)

キネマ航空CEO 映画『ハドソン川の奇跡』を見る前、見た後のお勧めの一冊

前回 は映画『ハドソン川の奇跡』としての感想ですが、今回はイーストウッド監督の頭の中にはあったが映画では明確には表現できなかった、あるいは上映時間の中に描き切れなかったと思われるある事例を挙げた本を紹介しておきます。

墜落か生還か-緊急事態発生』(1992) S・スチュワート 著/十亀 洋 訳 講談社刊(2000)

墜落を分析した映画や本は数多くあり翻訳もされているが、本書は重大事故から生還したクルーたちの記録であります。我々はこのことを信じて航空機に乗ることができるのであります。

その中から、TWA841便の事例はイーストウッド監督に多大なインスピレーションを与えたと思われます。

1979年4月4日午後8時25分、JFKよりミネアポリス・セントポール・インターナショナルに向けて離陸した同便ボーイング727-100 は強い向かい風のため高度を 35,000フィートから39,000フィートに上昇した直後にオート・パイロットによる操縦桿が左に20度から30度に振れていることを同9時47分に視認してオート・パイロットを解除したと同時に右のスパイラル・ダイブ入った。

コックピット・クルー(スリー・メン・クルー)の回復作業により8,000フィートで制御を取り戻し3,000フィートで急降下から回復したが、今度は強い機首上げのまま上昇に移りストール・スピードに近づいてゆく・・・もちろん近くのデトロイト・メトロポリタン空港に緊急着陸したのだが・・・著者は英国航空の機長を定年退職し自ら起こした航空会社で機長を務める現役のパイロットであり下手な航空パニック映画より緊迫した空気を伝えている。

原因は右主翼にあるNo.7スラットの予期せぬ展開であった。当然NTSBの監察事案となりクルー全員に厳しい目が向けられる。コックピット・クルーによって意図的なフラップの操作が行われたとしてである。

727-100はジェットライナーとしては第2世代というより1.5世代であったようだ。つまりパイロットの技量で飛ぶ時代であった。

このため次のようなパイロットが使う裏技の噂(うわさ)があった。

727では(当然禁止されていたが)高速時にフラップを2度下げると高速飛行に適した翼型に近くなり巡航速度や燃料消費が良くなる。このためには前縁スラットの展開を止めるためスラット制御回路のブレーカーを人為的に遮断することが行われていた。

これが実行され、航空機関士がコックピットから出たときに残ったクルーがブレーカーを切りフラップを下げた。このあと戻ってきた機関士がブレーカーが落ちていることに気づき入れなおしたためスラットが出た人為的な事故である。

NTSBは航空機関士が直前にコックピットから出たという乗客の目撃証言を頼りにストーリーの肉付けを始める。・・・常識的に考えれば機関士もブレーカーが外されている理由は知っているはずであり二時間ドラマでは嫌疑を疑う探偵か刑事がいるはずなんだけど、ボイス・レコーダーの音声が消されているなどの状況証拠でさらに疑惑を深めていく。

もちろん並行して構造的な調査も行われたがスラットの不時作動が考えられる一連の構造の問題は過去にNSTBボーイングが実施した対策が完了していることから深く追及はされなかった。

唯一残る技術的な可能性であるNo.7スラットの作動ピストンとロッドがシリンダーから外れたケースは引き起こし時にNo.7スラットの飛散とともに部品は機体から外れて回収できなかったのでボーイングの部品試験のデータから否定されて可能性で終わった。No.7スラットの飛散で操縦を回復したのだけど)

NSTBの公聴会にクルーが呼ばれたのはボイス・レコーダーの消去を含む発生前のクルーの行動についての査問の一回だけでありクルーらが要求したすべて状況についての発言は拒否された

飛行試験は行われたがパイロットからは飛行特性が変わったと言われている727‐200が使われた。シミュレータによる実験では機長の対応が遅れたため回復の機会が失われたと報告書に結論付けられた。もちろん上記の想定化においてのシミュレートである。

ALPAAir Line Pilot Association 米国定期航空操縦士協会)から反論が出され、報告書には査問委員会を構成する三人の委員のうちパイロットでもあった一人からも付帯意見がつけられた。

発生から二年以上経った後に、疑惑を残したままクルーの三人は嫌疑不十分とされた。正副操縦士は業務に復帰したが疑惑の中心となった機関士は職を辞した。

その後ボイス・レコーダーの音声消去もスラットの不時作動も合理的な理由や関連するインシデントが実際に発生し部品や構造に疲労や腐食による機能不全が立証されている。

この本の発行された時点ではクルーの名誉回復はなされていない。

以上、航空機フリークなら興味のある細部もすっ飛ばしたので実際に本をお読みください(例えば、右主翼のスラットが開いたのにオート・パイロットは左翼を下げようとしたのか。なぜボイス・レコーダーの音声が消えたのか。NTSBが結論を変えるべき事例の数々とは)。図書館にあるはずです。

映画「ハドソン川の奇跡」の中でもサレンバーガー機長ALPAの担当者にNTSBの情報を入手するよう強く求めている場面があります。

NTSBが進めたTWA841便の調査のなかで最初にクルーを聴取した調査官が言ったとされる「もしクルーが過ちをしていないのなら727の耐空証明に疑いがかかる」という発言にすべてがかかっている。(著者は操縦士ですから事実認定は読者の判断にかかってもいます)

USエアウェイズ1549便はフランス製だけど、映画の中でもこのインシデントについてサレンバーガー機長ALPAの担当者が話をしているようだったが当CEOは聞き取れなかった。昔なら居残れたのだけどね。いずれDVDになったら確認してみます。

2019年4月
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