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2012年6月の2件の記事

2012年6月18日 (月)

キネマ航空CEO 梟雄か?英雄か? 野田首相について考える。

人間の顔を実物大で写せる大型テレビの効用について以前に述べたことがある。そのテレビで野田首相を観ていると歴代の民主党の首相の中では腹が座っているように見える。

 

野田首相の引用術から見てみよう。代表選挙前の所信演説のさわりの部分は相田みつをの「ドジョウが金魚のまねをしてもしょうがねえじゃん」から上手い引用をしたものである。泥鰌(どぜう)がだれだか、金魚がだれだか、明らかである。

 

しかし演説の中でなにかを比べる場合は、「Aでもなく、Bでもない。じつはCである」と否定を重ねたリズムで強調するのが普通である。

 

このレトリックを巧みに連想させる個所に使っている。「金魚でもなければ、鯰(ナマズ)でもない。私はどぜうである」
どうです?上手いもんではありませんか?ナマズは言わずもがな、でありますね。ナマズはどぜうに比べるとどうも分が悪い。

 

国民は、あたかも2時間ドラマのように、政治に対して快刀乱麻のごとく複雑に絡み合った法律を一気に解きほぐすことを期待している。
ただ2時間ドラマも冷静に考えれば何も解決していない。立法によって成立している法律にそって一見解決してもその後に膨大な司法処理、行政処理、さらには個人の内的処理(諦観)の葛藤が待っているのであるが視聴者はそんなことは始めから無視している。

 

国民は望む!! 廃炉、復興、年金、国防、脱デフレ、えとせとら・えとせとら・・・と。こんなもの、日本の仕組みのなかで一回の首相の任期でできるわけがない。

 

そんなことはない! 正しい政権党が政策を引き継いで権力者を交代させながら進めばよい! まあ、良いのか悪いのかその見本がお隣にあるにはあるのですが(閑話休題)

 

さて、民主主義の世にあっても権力者が権力に固執する。これは基本的に必要である。
そのために野田首相は初年度には「税制」一本槍で突き進む。増税はその使われ方や集め方を一旦脇に置くと人口が減っていく日本には絶対に必要である。

 

たとえば戦後70年かかって復興を成し遂げた日本には膨大なインフラストラクチャーがあって国民は今の時間を享受している。そのインフラも使えば減るし時間と共に壊れてゆく。

 

しかし人口が減少しても現在のインフラはその地方にとってはいきなり放棄できないのも事実であろう。
時おり新聞に沿線に残る住民の声をノスタルジックに取り上げられて暗に政府や自治体を批判されたとしても国家(国民)としては時間をかけて廃線、廃路にしていくしかない。それまでは国債という税金の先取りでまかなうことになる。

 

原子炉再稼動や廃炉にしても同様である。考えうるリスクであろうがなかろうが実際に現実になれば歴史の中でその責任は負わねばならないのが政治家であり、このことだけの一局面で政治家個人をあげつらうのはいかがなものかと考える。

 

こと増税に関して言えば与党であれ、野党であれ、いずれ実行しなければならない。野田首相はそこを衝いた。そして与野党協議にこだわり党内の軋轢は無視している。

 

いずれ政党は再編される。税制変更を実行した元総理大臣の実績は再編された政界においてもある程度の権力は維持でき、あわよくば新政党の中で再度、首班となって国政を担当することも可能な人脈も政、官、業に形成されつつある。では国民はどうみるか?

 

その「人脈なくして政治家になにができるのか」を国民ひとりひとりがどう見るているかを問われることになる。
これは、「人からなにかしてもらうには」ばかりではなく「自分からなにかするには」何が必要か?の両面を考えれば自ずとわかってくる。

 

もちろん昨今流行りの歴女、歴男はそれが「両刃の剣」になることはさらに深くご存知であろうがその「剣(つるぎ)」を上手に使った人物が歴史に名をのこしたり、無名であっても生きのびてアナタやワタシの先祖となっている。

 

さて政治家はアナタもしくはワタシ個人と全く同じでなければならぬと考えてしまえばそこで国は成立しなくなる。
そのことを前提において、その場その場であたかもスポーツの実況中継のようにありふれた評論を吐くのではなく、現在を将来の歴史物語として政治家の言動、離合集散を見ながら未来に対する無名の歴史上の人物として一票を投じるのが選挙権の行使であろう。

 

とはいっても人間は人を見誤ることはある。野田佳彦が、英雄か?梟雄(きゅうゆう:辞書引いてね)か? 歴史にはその点だけが残ってしまう。その点を本人は自覚しているのではなかろうか?

 

氏は松下政経塾の一期生の出身である。実業家として成功を収めた松下幸之助氏が1979年に創立した私塾である。その旧「松下電器」の実情は十分ご承知であろう。新興実業家といえども人間一代の仕事にすぎない。まして政治家などは・・・、と (金魚とは違うゾと) 腹を括っていることを信じたい。

 

なお、古今の歴史では英雄も梟雄もやってることは大差ありません。大衆がどう思っているか、思わされているかです。

 

日本人の考える理想的な出処進退は山口百恵さんかな。え?比較の対象が違う。では小泉純一郎氏の政治家としての生き方ではどうでしょう?

 

国民に痛みを訴える「米百票」から野党の質問レベルにあわせた「人生いろいろ・・・」までの引用で切り抜ける政治家としての弁舌はなかなかのものでした。そして郵政改革の一点突破だけであっさり引退しちゃいましたね。

 

ただし実力をもった後継者が次々と登場する歌謡界とは違い、小泉氏は百恵チャン並みの引退をして古巣の政党を含めて政界に今日の政権交代と混乱を巻き起こした張本人でもあります。その意味では氏は梟雄の資格を十分に備えています。(それにしても陰でなにもやっていないのかしら)

 

野田首相が小泉氏を反面教師として政権に執着し大所高所(それしか言いようがない)の民意に沿った政治を行なったそののちの結果で、未知数の野田氏も、評価の定まらぬ小泉氏も英雄となれるといえます。

 

国民がいなければ国家も政治家も必要はない。政治家の資質もさることながら梟雄や英雄を作るのはわれわれですね。(とはいっても選ばれた民主党は 市民運動 に乗っかったナマズを選んじゃったもんね!はてさて今度の選挙はどうしましょうか)

2012年6月 6日 (水)

キネマ航空CEO 葉桜の候にさらに物思う

承前 ・・・ キネマ航空CEO 葉桜の候に物思い、俳句をひねる

臼淵大尉の「進歩」とは何を指すのだろうか?
作中では戦艦対航空機の戦闘における対空兵器の劣勢のようにも読める。「新生日本」については具体的な憶測もできず永久に知ることはできない。

臼淵大尉は後部副砲指揮所で爆弾の直撃を受け血の一滴、一片の肉片も残さずその精神、心情と共にこの世から消えている。
しかし彼のことばは経済成長と共に勝ち得た精神的な心情が直面する「日本」の停滞と既得権の蔓延と、その行く手を憂べき世情に痛切な響となって重なってくる。

「進歩」については「兵器」とは離れて「新生日本人」と考えれば今と十分に重なる。
「新生日本」は「日の丸」や「君が代」を否定するものではなかったろう。 いったいどのようなものであろうか?

これまでの勝ち戦といえども戦場の惨禍を経験した海軍軍人が非戦の思想を持った例はあった。 しかし、ここから憲法九条に敷衍するには無理がある。

臼淵大尉(戦死により中佐)は当然のことながら二度にわたる原子爆弾の惨禍やソ連の参戦さらには大陸における日本軍の行為など知る由もない。いまとなっては同じ戦場から生き残った吉田満の著作「臼淵大尉の場合」から慮(おもんばか)ることになる。

二人の相違は同年の生まれであったが吉田満は早生まれの22歳、臼淵巌は21歳であり、そして中等学校卒業後の進路の差であった。

随筆や論評と括(くく)るには重い吉田満の著作は「戦艦大和ノ最後」、「祖国と敵国の間」と共に次に収められている。

「鎮魂戦艦大和」 吉田 満 1974 講談社

吉田満の著作は戦勝国アメリカに加えて、左からは好戦文学として、右からは特に初稿の末文を改稿したことで精神的な転向として、生還者からは(意図的な)風聞の寄せ集めとして批判の対象になっている。詳細は次の著作が参考になる。

大和の最後、それから 吉田満 戦後の航跡 千早耿一郎 2004 講談社

臼淵大尉の言う「進歩」については、はたして出撃前夜の臼淵大尉の発言かどうか、さらには吉田満の創作ではないか、との疑義もある。

しかし、その「進歩」は次のようにも読める。臼淵大尉の父君、臼淵清忠中佐は海軍機関学校出身で艦船から航空機を発進させるカタパルトの権威であった。そして「大和」の構想が始まる時期に航空優位の論文を外部に公表したことで記録として残る軍法会議を避けた退役の処分を受けている。

そしてその子息は航空優勢が明確となった時点で「大艦巨砲」の象徴である「大和」乗り組むことになった。あまりにも皮相な解釈かも知れないがその胸中を横切った父君への想いを重ねた苦渋ともとれる。

戦争で死ぬということ(1923.8.22-1945.4.7)、生き残るということ(1923.1.6-1979.9.17)、とはそういうものである。そのことを書物でいいから一度は経験すべきである。

そして、読んだからといって結局は何も分からない。読んだもの自身の生き方が結論となるのであろう。

ただ一つ学べたことは「戦争の終わらせかた」である。

太平洋戦線の政治的終結は鈴木首相、米内海相などの海軍のラインによる工作で昭和天皇の聖断に持ち込んだ。 このためか陸軍に比べ海軍に対する世評は高い。「スマート・ネイヴィ」と呼ばれることもあるようだが形容詞の「スマート」には「要領のよい(小ずるい)」の意味もある。

海軍は兵器オペレーターの集団である。海軍は役にたたないと分かっていてもオペレーターの扱う兵器がある限り戦争の終結を言い出すことはできない。
この点では臼淵大尉は冷徹に戦争そのものを見通していたと思える。

海軍は多くのオペレーターを兵器と同時に失う作戦を行い、そのために空中、海上、海中の多くの簡易兵器を製造し実戦に投入した。

陸軍は竹やぶがあればオペレーターにも武器が作れる、あるいは作らせることができる。しかし海軍では武器を作るためには、用兵者とオペレーターの中間に設計者、製造者が必ず存在する。

もともとは「櫻花(おうか)」という航空機について稿を続けるつもりであったがその季節を逸したようだ。いずれ稿を改めたい。

一旦 了

P.S.

原子力村に限らず、何々村と呼ばれる現代の閉鎖社会の核となるのが「官僚の無謬性」と「工学技術者の無名性」なのではなかろうか?

もちろんその周囲をユーザーと呼ばれる受益者が包みこんで成立していることは間違いないのであるが、その社会構造と心理構造をブログで書くには時間がかかる。

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