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2013年6月の3件の記事

2013年6月 6日 (木)

キネマ航空CEO 現代(同時代)評論の書き方を教授する?

承前々 キネマ航空CEO 橋本徹(市長?弁護士?推理小説作家?)とフォークソングについて考えるついでに「日本人」も考える
承前 キネマ航空CEO 橋本徹弁護士をほっといて、フォークソングと「日本人」について考える

承前、承前々の後書き 前書きに、なってるかな?

前二回の「橋本徹」大阪市長のパフォーマンスに引っ掛けた「フォーク・ソング考」は、先月当キネマ航空CEO のオフィスに訪問いただいた知人のコメントにあった「宇野常寛の怒り」がきっかけであります。

誰だかさっぱり分からず、市立図書館の蔵書を検索したところ、幸いなことに著作は二冊
のみ。さっそく借りた。が・・・

「ゼロ世代の想像力」 早川書房 2008

読んでもよく分からない。まあ、分からないことが分かっちゃう評論家仲間と出版編集者への挨拶のようなものだから、その甲斐あって、次に上梓したのが、

「リトル・ピープルの時代」 幻冬舎 2011

こちらは面白かった。20世紀の後半の3分の1から21世紀に入って延々と続く「ウルトラマン」と「仮面ライダー」のサーガの「深ーい」全容をまとめてある。また、村上春樹がさっぱり分からなかった読者への解読法もある。

内容の当否はともかく、いい歳をして、こんな長ーいTVシリーズや首をひねる題名の小説を全巻通して観たり、読んだり、なんて、これから先ないもんね。しかし・・・、

補論1、で追加されたクリストファー・ノーランの映画「ダークナイト」の分析は腑に落ちるので全体も、いいところを突いているのかもしれない?でも・・・

補論2、3となると、こんなの形こそ違え昔からあるのでは、とも感じる

大衆文化は社会からの影響を受け次の社会を先取りすることが考察されている。・・・が、それらにひたったそれぞれの年代が社会に与えた影響や著者の怒りは今一つはっきりしない。ニコニコ動画などオタク・コミュニティでは具体的に怒っているのかな・・・。(注記参照)

キネマ エアラインズ もある種のマイナーなヒコーキ・オタクが運営しており、当CEOの結論として、宇野氏の著作は現代のオタク的評論の書き方のうえでは、大いなる参考書になる。

で、その書き方のルールをまとめて、ご伝授しよう。当CEOも今回はこのルールをマネしたんだもんね。

一、時系列、もしくは並行、で進んだ大衆文化(これの選択が一番の大切)を選んで、こと細かくオタク分析をする。

二、現代哲学の用語を適当に混ぜる。ポスト・モダンとか脱構造主義とか、メタなんとやら、とか・・・。できればそれに関連した引用や人名を加えると、なお良い。できれば脚注をいっぱいつける。

テーゼとかアンチ・テーゼはともかくとして古典哲学や近代哲学からの援用をしないほうがさらに良い。20世紀のオタク評論のイメージが強すぎるサルトルやマクルーハンは絶対ダメ。

三、政治現象や社会現象は少し前を扱う。ただし、深入りしない。

当CEOは、三番目のルールを破ったけど深入りは避けたつもり。

二番目はパロディとしてやろうと思ったけれど、当CEOの能力からすると自縄自縛になりそうであきらめた。

しかし、短文のツイートをやめて本格的に現代評論をやるつもりなら、このために使える最強の参考書を推薦しておきます。

「現代思想の遭難者たち 」 いしいひさいち 講談社 2002 増補版 2006

漫画家、いしいひさいち氏の線描の腕の冴えも鋭いが、コマの脇でそのペンを支えた編集者たちが豪(えら)い。34人の現代哲学者が登場するので、援用する人選には事欠かない。(ただし、「現代」だけに、思想にも流行り廃(すた)りがあるので要注意!)

当CEO は、なかでも2002年版のユルゲン・ハーバーマスの項に、どっぷりとはまりました。ぜひ、ご一読ください(ご一覧か?)。もちろん2006年の増補版にも含まれています。

あ!もう一つのルール・・・。

四、この、ハーバーマス先生の真似はしない。つまり、対象となる発表媒体を選ぶ。

当CEOの場合はちょっと微妙だが、宇野氏はこれを守っているようです。

では、現代(同時代)評論家を目指す諸君、この四つのルールで奮闘を祈る。

お後(あと)がよろしいようで・・・

注記、

「リトル・ピープルの時代」のあとがきに、著者は「本書の印税を(3.11の)被災地に寄付することに決めた」とある。期間限定かもしれないが図書館で借りた当CEOの代わりに買って読んでね。

宇野氏の(抗えないことに対する生の)怒り」は、表には出さず、このあとがきのなかに凝縮されているようだ。

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ここまでを、
前書き、として読んだかたは、

1. キネマ航空CEO 橋本徹(市長?弁護士?推理小説作家?)とフォークソングについて考えるついでに「日本人」も考える
2. キネマ航空CEO 橋本徹弁護士をほっといて、フォークソングと「日本人」について考える

の順に読んでね!

後書き、として読んでいただいた方々には、

「お疲れさまでした。しばらく目を閉じて二つのフォークソングを声に出して歌ってみてください・・・」とお願いして、お付き合いいただいたお礼を申し上げます。「ありがとうございました」

2013年6月 3日 (月)

キネマ航空CEO 橋本徹弁護士をほっといて、フォークソングと「日本人」について考える

承前 キネマ航空CEO 橋本徹(市長?弁護士?推理小説作家?)とフォークソングについて考えるついでに「日本人」と「日本語」も考える

「承前」の改訂や新しい知見により事前事後の通知なく書き直すこともあります。

花はどこへ行った
死んだ男の残したものは

いずれも、ほぼ同じ時期に、とはいえ、日本ではやや遅れて1960年代の、十代、二十代の世代でフォークソングとして歌われた時代を映して、いずれも「反戦歌」としてのくくりで今もどこかで歌われているのだろう。

では、「反戦歌って、なんだろう?

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その前に構成を(承前から)抜き出して見る。

まず「花はどこへ行った」のそれは、詩的で、かつ論理的であり、戦争はなくならないという前提があって成立している。だって彼らは何にも学ばないんだから・・・永遠の繰り返しである。その繰り返しの論理性には二面性がある。

では「死んだ男の残したものは」ではどうか、前回で示したように第三連以降では、言葉の連鎖ではなく思考の連想でつながり、前者の論理性とは対照的な極めて非論理、言い換えれば俳句的である。

そして、「死んだ男の・・・」の第五、六連に残された「あなたと私」と「輝く今日とまた来るあした」で俳句的に示された「輝く今日」の「あの時代」から営々進んできた日本は「また来る明日」が「輝く」幻想であった日本人の「(それを言っちゃあ、お仕舞いよ、と元には戻れない)非論理の言葉の集まり」のままで断崖絶壁の上で立ち尽くすことになった。

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反戦歌って、なに?に戻ると、似た言葉に「厭戦歌もある

やはり定義が必要となる。で、当CEO は勝手に考える。

詩であれば一読者もしくは朗読会の数十人から数百人が対象である。

いっぽう、その「詩」に旋律が付き「歌」となると対象は数千、数万、メディアを通して数百、数千万、Web 上では数億以上の心にメッセージを秘めた「詩」のひいては作者の、歌い手の、思いが拡がる。

・・・はずである。ところがどっこい、その「詩」のメッセージを受け止める心や文化が違うのは当然。で、それに時間の経過が加わる。かくして言葉の多面性があらわになり、多勢か無勢か、の世界の中で言葉の継続性を試される。

で、当CEOは、両者の相違に次の仕分けを使って定義として使うことにする。

「反戦歌」は戦争という言葉に反対するうた。
「厭戦歌」は特定の戦争に反応するうた。

(ここで似て否であるが当キネマ航空 003便 では「戦争映画」と「戦場映画」と「反戦映画」はどう違うのか?があります・・・KINEMA AIRLINES のコマーシャル)

具体的には、
花はどこに行った」は「反戦歌」の骨格は持っているがベトナム戦争の「厭戦歌」としてアメリカで歌われはじめた。ある意味ではそれだけの力を持ったために歌い捨てられる歌でもあった。その一方で時代を経て聞き流せば「鎮魂歌」でもある。だって彼らは永久に学ばないことさえ学ばないんだもん。いや、すでにしっかりと学んじゃっているのかな?

いっぽうの、
死んだ男の残したものは」では骨格自体は「厭戦歌」である。

前半の三連は「湖畔の宿」の替え歌として歌われる、

「昨日、陥(おと)したトーチカで
タコの八っちゃん、名誉の戦死
タコの遺骨はいつ帰る
骨がないから帰れない
タコの嬶(かあ)ちゃん、悲しかろ」
(当CEO が聞いたフレーズだが、Webでは出だしの異なる歌詞が大勢を占めている。さすがに「愛馬進軍歌」の二番からそのまんまの借用ではまずかったのか)

・・・と、さして変わらない。谷川氏や支持者には芸術と卑俗の区別もつかぬ、と叱られるだろうけど。まあ、戦争に対する生理的な反発を芸術的に人格の中に形成させる歌が反戦歌と定義されれば、気の弱い当ノンポリCEOは、そうかな・・・と思っちゃうのですけどね。

その芸術を「厭戦歌」と定義する根拠となる「特定の戦争」は第四連での「血に」汚れた生々しさではなく、1965年3月に開始されたB-52 による北爆と重ねた「核」で「ゆがんだ地球」として過去形でうけ止めた戦争であろう。少なくとも歌ったり聞いたりしていた側にいた当ノンポリCEOはそう受け取った。

ゆがんだ地球」はヴェトナムでの枯葉剤の散布作戦を指すともいわれている。この作戦は1961年には米軍から公表されていた。

したがい、谷川氏が委嘱されて作詩した時点の1965年にはKGBの支援を受けた「べ平連」の活動の中でその深刻な薬害を知って作ったことを否定はできない。ただ、詩としては「ゆがんだ」で「汚れた」を喩(たと)えないと思われる。

その前に、「地球」を、たとえば「地球より重い」らしい命をもつ「人間」の暗喩としているのであれば、また別だが・・・「勝手に解釈してくれ」で終われる、詩人のこころの中まではわからない。

当時の作詞者の年齢は34歳、戦争が終わり20年が経過していたが戦争の記憶は深い。いっぽう、歌ったのは戦後に「もの心」がついた世代でした。

論理の体裁が崩れた後半の二連は、第四連に重ねて当時の国民の心情を巧みに取り込んでいる。このとき「兵士」が存在したという現実を「残ない」という可能性を示す未然形の過去形で「地球」に重ねられて否定してしまった。

その兵士はアメリカ人を指すのであろうが日本人ともとれる。この点では「花はどこへ・・・」でも同じであるが、表現された内容は明らかに違う。

その結果、日本独特の「反戦歌」となってはいるが、現在では憲法96条、同9条の変更の先に必ずあると思っている「仮想戦争」への「厭戦歌」となっているのかもしれない。「反戦歌」には「厭戦歌」ほどの力はないのである。

言葉に曲をつけて歌われ、聞く人数の拡大と時間の長さの中で生じる、言葉の曖昧さ、危うさ、いかがわしさ、については作曲者の武満徹氏が最も理解していたように思える。谷川氏に作曲を依頼された武満氏は友人からとはいえ困惑したのではないだろうか。

「谷川に作曲を依頼された武満は1日で曲を完成させた。武満はそれを「メッセージソングのように気張って歌わず、『愛染かつら』のような気持ちで歌って欲しい」という手紙を添えて渡したというエピソードが残っている。(中略)その後、作曲者の武満自身*1984年に無伴奏の合唱曲に編曲した。(Wikipedia より抜粋して引用。太字は引用した当CEOが付与)」
*は、(原文の から 当CEOが置き換えた。 この歌も多くの歌い手によりカバーされ、合唱会でアマチュアも歌ったが、編曲された楽器による演奏、伴奏を伴っていた)

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繰り返すが文化の異なる社会のフォーク・ソングにも見られる「論理」の一貫性による弁証法と「俳句」の思考法に伴われた弁証法、さらに言えば「メビウスの輪」と「絶壁からの飛躍」でおこなう二つの弁証法の接点を現実にどうかみ合わせるか、が谷川俊太郎氏が言葉で紡いだ「(戦後政治のメタファーのつもりでもなさそうだが)死んだ歴史」の中にいる「生きてる、ではなく、)の、あなたと私」への課題と言えそうである。

日本人同士なら、絶壁の上に立つと事件は解決し、俳句で明日も見えてくるのだが・・・

橋本徹市長は弁護士らしくもなく、いや、国会に数多(あまた:現在40人)いる弁護士先生と同じ、連想でつながった「俳句の飛躍」の論理で行う弁証法で、その右や左の先生たちが避けている「メビウスの輪の世界」へ単身で切り込んじゃった。

少なくとも安倍政権は世界と向かい合える論理で回る日本の「メビウスの輪」を完成させて、相手の「メビウスの輪」に、ある時(ある国)には同期し、ある時(ある国)にはぶつかりながら二面性の輪を回していく努力が必要となる。

言葉による論理を簡単に展開する手段を手に入れた市民もその輪と俳句を両立させる必要を迫られるときがきた。

鉾と楯の両面を見せる「メビウスの輪」は、言葉の論理でつづる、短ければ短いほど、単純であればあるほど、いい俳句なのでありますね。

ツイッターの短文遊びは日本の文化のグローバリゼーションだ、などと、何でも我が国論法の真似をしている場合ではないんだ。

ツイッターは国単位で言葉の数を集めて国際的に比較する政治的道具なのだ。これで民度、民意が測られ、戦争が始まることだってあるのだ。これからは・・・と、なんと大げさな。

ということで、あとがきに続くのだー。

キネマ航空CEO 現代(同時代)評論の書き方を教授する?

2013年6月 1日 (土)

キネマ航空CEO 橋本徹(市長?弁護士?推理小説作家?)とフォークソングについて考えるついでに「日本人」も考える

書いてはみたものの谷川氏の詩の仕分けの部分は書き直すかもしれません。

当キネマ航空CEO の人物評はご本人が職を退いてから書き始めているが、今回はどうやら国政政治家としての命脈が怪しくなってきた、ということで書き進める。

皆さんは「死んだ男の残したものは」という六連の詩もしくは六節の詞はご存じであろうか?

作詩は谷川俊太郎氏。一連ごとに「死んだ者」が「残した者(もの)」と「残さなかったもの」を並立させて綴り、そのうちの「残した者(もしくは、もの)」が「次の死んだ者(もの)」となって続いていく。

まず、死んだもの、と、残したはもの、は、

(妻、子ども)→(しおれた花、子ども)→子供(ねじれた脚、乾いた涙)、

そして、四連目から言葉は転調もしくは変調する。「残したもの」と「死んだ者」が言葉ではつながらなくなる。

第三連 で残されたもの(ねじれた脚、乾いた涙)
第四連 兵士こわれた銃、ゆがんだ地球
第五連 彼ら兵士たちそれとも男や女に子どもを含むのか?)→生きている私あなた
第六連 死んだ歴史輝く今日とまた来る明日
(歴史ってなんだ?私とあなたが生きていることで死んでいるのか、単に彼等が死んでいった年代記なのか?たぶん生きているけど何もしなかった結果だろうけど・・・)

では、「残さなかった」ものはというと、第三連まで「ほかには何も」のフレーズに重ねられた、

墓石ひとつ着物一枚思い出ひとつ

に、つづく第四連からは

平和ひとつほかには誰もほかには何も

となって、第四連に重ねられたのは「残なかった」から「残なかった」と可能性を否定する動詞もしくは否定された意志を表す文脈に変わり、第五、六連では第四連までの過去形から「残っていない」と継続を表わす現在形に変わって、これが二度ずつリフレインされてメッセージ性を強調している。

これに武満徹氏の曲が付き、その歌曲は多くの日本人に日本語でスッと心に落ち込むことになる。

ただ、この詩をアメリカのアーリントン国立墓地で歌えるか?となると、どうであろう?

改めて明言しておくがこの詩、この曲を貶めるつもりは毛頭もない。

さて、この詩および曲が創られたのは1965年であった。

谷川氏がインスピレーションを受けたと思われる歌に「花はどこへいった」がある。

こちらは1955年にアメリカのフォーク・シンガーの草分けピート・シーガーの作詞で三番まで作られ、創唱された。続いて1960年ごろにジョー・ヒッカーソンが二連の詩を続けている。

第一連は「花はどこへ行った」から始まり行き着いた先で終わる。続いてその先からその先へと尻取り遊びのように続く。

花は少女へ」→「少女は 男の許へ」→「男は兵隊へ」→「兵隊は墓へ」→「墓は花で覆われた

最後の第五連では第一連につながり、歌う場合も第一連に戻り六連の詞となって永遠に輪を描く。

またすべての詞に、二度の「いつになったら彼らはわかるのだろう」のリフレインがついている。

彼らthey)」となったのは後ろの二連が追加されたときに「いつになったらあなたたちyou) はわかるのだろう」から改変された。歌い手と聞き手の関係に加えて第三者へのメッセージが加わったのである。

これらを多くのアーチストがカバーしていく過程で第三連の「男は制服を着た」というシーガーの比喩的表現は「兵士」に置き換えて一貫した論理性に整えている。

こうした改変には第二連の「若いの許へ」から「の許へ」と変わるなど、アメリカの倫理観の反映もある。

で、先の問いに戻る。この二つの詩または詞はアーリントン国立墓地で歌えるのか?

たぶん、後者は抵抗は受けるであろうが歌えるであろう。(they)が何を指すかは公知の記憶となっており、それを否(いな)とする人たちはいる。

ただ、聴き方を変えれば鎮魂の曲にも聞こえる。この詩は論理的ではあるが旋律にのると二面性を持つ「メビウスの永遠の輪」である。

では、前者は?

日本語で人知れず歌っている分には問題ないであろうが、ひとたび英語で声高に歌えば激しい抵抗があるはずである。

父や息子や夫、今になれば母や娘や妻が「ほかには何も、平和一つ」さえ残さなかった、加えて「ゆがんだ地球」と「死んだ歴史」をのこしたと断定しているのだから。

橋本氏は、これを、もしくはこれに近いことをやってしまった。歌うこと(と同時に、内容)が正しいことであっても、である。

橋本氏は沖縄における米兵の所業を米国内の問題につなげるために、米軍基地で小さな石をなげ、その波紋を特派員協会で広げ、訪米へつなげて、そこで大きな石を投げる、といったシナリオであったと思われる。

ところが、国政への野心がある橋本氏は、それをいまの政権が国内問題にとどめている韓国が国家として主張する慰安婦問題と不用意に結びつけてしまった。

米国で投げる大きな石を先に投げたのである。さらに言えば小さな石にも後の論旨につなげるためか、より不用意な伏線を張ってしまっていた。

橋本氏は、言葉で商売をする弁護士としての力量の限界をさらしてしまった。弁護士もさることながら推理小説作家としてもいささか頼りない。さりげなく公開した手掛りを読者に悟らせずに犯人にまで結びつける構成力はなさそうだ。

ただ、「国政」は「外政」であるとの認識は正しい。北朝鮮や中国のような鎖国国家であってもそうである。むしろそう認識して行動している。日本はアメリカを出島にした鎖国ではやっていけなくなったのである。

アメリカには日本のような「外務」省はない。「国務」省がその任にある。日本の外務(外国とのバランスを考える)官僚が国務(国益を考える)官僚を相手に太刀打ちできるのかの根本問題である。

かたや、地方自治体の長(おさ)には「おもてなし」の能力があれば十分に「外交」はできる。橋本市長にはそちらで頑張っていただきたい。

「ところで、二つの詩を不用意に結びつけているのは、お前のほうだ!」ですって?

「うーむ!それは、まだお後はよろしく、ないようで・・・」また来る次回に続くのだー。

次回は、

キネマ航空CEO 橋本徹弁護士をほっといて、フォークソングと「日本人」について考える

前書きもあるよ。

キネマ航空CEO 現代(同時代)評論の書き方を教授する?

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