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2014年11月の3件の記事

2014年11月21日 (金)

キネマ航空CEO 高倉健氏を追悼す

氏は当CEOが前回ブログの公開後の加筆のなかで氏の名に言及した、くしくも、その日にお亡くなりになりました。
ここにご冥福をお祈りするとともに、氏のフィルモグラフィの中から当CEOが推すベスト3を記録して心より追悼いたします。

1.昭和残侠伝 公開1965・10・1 監督 佐伯清 脚本 村尾昭、山本英明、松本功

2.飢餓海峡 1964 監督 内田吐夢 脚色 鈴木尚之 原作 水上勉 

3.新幹線大爆破 1975 監督 佐藤純彌 脚本 小野竜之助、佐藤純彌

次点 ブラック・レイン BLACK RAIN 1989 監督 リドリー・スコット 脚本 クレイグ・ボロティン、ウォーレン・ルイス

要約を先に読みたい方は、こちら 。

1.は、ほぼ同時期に先行して公開された『網走番外地』 公開1965・4・18 監督 石井輝男 脚色 石井輝男 原作 伊藤一 、 と共に高倉健氏が東映任侠映画シリーズの口火を切ったシリーズの第一作です。ただし、番外地』シリーズの第一作は、ストーリィ自体はほとんど無視されているけれど実話の原作ものでした。

その理由からではこちらの『残侠伝』シリーズが、正統な昭和任侠のスタイルを確立したともいえます。

高倉健(以下健さん)と池部良(良さん)の対立と友情に藤純子らが絡む、三人のスターで成り立つ変奏曲の繰り返しではありますが、そこがいいのです。(念のため当CEOは、どちらのシリーズもすべてを観たわけではありません)

第一作の公開は戦後20年たっていましたが、背景は終戦直後でした。率直にまとめれば戦争に生き残った世代が夢想するケジメが背景にありました。

それに東京オリンピックも終わり高度成長が停滞し、学生運動、労働運動も閉塞した社会にいた次の世代が共鳴、共振した作品でした。
ただし、ストーリーの根幹は江戸時代からつづく(正当な?!)復讐譚で、いわば日本人の琴線に触れる伝統的エンタテイメント作劇術でもあります。
『永遠の0』でもゼロ戦を除いて読めば、何となくでもお判りでしょ?

2.公開年度から分かるように健さんのブレーク直前の作品です。伴淳三郎、三国連太郎、左幸子といった一癖ある俳優、女優に囲まれた健さんです。
今となっては健さんゆえにこれからも残る名画、名作となった、といえるのかもしれません。

伴淳(バンジュン)といっしょに行動する刑事役ですがなかなかカッコいい。表面では戦後が薄れる時代や世代をも感じさせてくれる名共演です。

この当時の現代ものの日本映画にはロケーションが多用されていました。ストーリィばかりでなく背景もお見逃しなく。

3.健さんの役はテロリスト・グループのリーダーです。もちろん理由はあります。
ニクソン・ショック、オイル・ショックと貿易立国の経済による国民の生活が外から揺さぶられますが、政府の対応は後手にまわる時代になっておりました。具体的には田中角栄首相のロッキード贈収賄事件のさなかに撮影され、次の三木武夫内閣でも自民党内の混乱で政治が停滞していた時期に公開された。

相手は日本国有鉄道、ターゲットは東京-博多間を走る0系新幹線。(ふつう架空の会社、架空の乗りものにするんですが・・・)

もちろん国鉄の協力は得られません。(実質上の解決をするのは国鉄に勤める人たちなのですけどね)

したがい多くのシーンは模型を写すカメラ・ワークと「撮り鉄」もどきの実写に、車内や運転指令室は(たぶん写真から)再構成したセット(この中で、焦りまくりの『サニー「千葉』ちゃん」真一氏や誠実を絵にかいたような『ザ・ガードマン』宇津井の健さんの活躍)で緊張感を保ちます。

東映特撮も十分合格点です。特撮映画とすればある意味、東宝の『ハワイ・マレー沖海戦』の特撮よりすごいとも言えます。なにしろ「日本国政府」を真正面から相手にしているんですから。

さて、そこに登場するのは(元祖)『非情のライセンス』の「ボス」こと丹波哲郎氏演の警察庁刑事部長が国民を守る国家を代表して一人の健さんを無視し、もう一人の健さんを断じます。 政府はダメでも官僚はしっかりしていたといえるのかな
(元祖)『・・・』は、丹波哲郎氏らが出演した『キイハンター』の中で野際陽子・・・嬢(だったかな当時は、)が歌った曲名です。

映画としては、あれよ、あれよのご都合主義の脚本で、冷静に観れば後味もビター(それを承知の上で観客が感情移入しているテロとはこういうものだという列車内のシーン)ですが、映画はテンポだ、勢いだ!がよく分かる快作です。

次点 健さんは外国映画でも存在感を示します。マイケル・ダグラスと吠えまくるキャバレーのセッションも楽しい。
松田優作氏が持ち上げられているが実質は何をしでかすか理解できない(と思われている)日本人を描いているヒール役ですね。その意味では名演・怪演です。

どちらにしようか迷ったのが、ザ・ヤクザ THE YAKUZA 1974 監督 シドニー・ポラック、脚色 ポール・シュレイダー 、 ロバート・タウン、原作 レナード・シュレイダー

監督のR. スコットは英国人。S. ポラックはニューヨーク派というか、どちらもハリウッドの主流とは異なる感覚で日本をとらえています。

異論はあるかもしれないが、映像としての日本に対する認識は本質に迫ってもいる。後者には「戦争中の東京では広島や長崎よりもたくさんの人が死んだ」なんてセリフもある。

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ここで上げた作品は健さんは必ずしも主役ではありません。それ故に役者、俳優としての健さんが登場している重要な作品であります。

1.においては、「良さんあっての健さん」です。3.では当時の映画ファンの大半の思いを体現したヒーローでもありますが、いっぽうで、監督たちが据えた「陰の主役」は(大霊界から来たのか、帰ったのか)丹波哲郎の「ボス」であります・・・いまリメイクすると立場は逆転するのかもしれません・・・映画には時代がありますね・・・だからこそ健さんが画面にいることが重要な意味を持ちます。

以降の作品は監督、脚本家、それ以上に観客にとって「健さんありき」の「健さん」が「健さん」を演じる作品となります。そちらは当CEOが推すまでもなく多くの方にとり上げられるでしょう。・・・これらの作品も忘れられません・・・心よりご冥福をお祈りいたします。

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キネマ航空CEO

2014年11月 8日 (土)

キネマ航空CEO 読書眼鏡を試す - 『永遠の0』と『蜩の記』を読むの巻

2014.11.08 公開後、加筆。 同11.11擱筆

(承前)キネマ航空CEO 読書眼鏡を買う

さて、使ってはみたものの、慣れるにはそれなりの時間がかかりそうです。
レンズで矯正した左眼の焦点が合う範囲は極めて狭くなっています・・・水晶体を調整する筋力の衰えであります。

このため姿勢を正しくして読書する習慣を身に付けることから始める始末となり、効果自体はまだ何とも・・・であります。一体どんな格好で読んでいたんだ・・・

ということで、まずは、後日異なった感慨を持つようなら訂正することにして・・・いつものように長いので何度でもご訪問ください。なお、いずれも映像化されていますが、未見です。

結論を先に読みたい方は、こちら 。

『永遠のゼロ』 百田尚樹 1956生れ、初出2006年8月、

表紙のタイトルは大まかに上のように大きさを変えて書かれている。なにが大きな「0」と小さな「ゼロ」なのかよく分からぬが『無』から『無限』に広がる主人公の哲学的存在理由ではなく、「零式艦上戦闘機」のことらしい。

0 戦、ゼロ戦、そのものは 運用者が主張するグラフに外挿法で作り込んだ仕様書に副って頂点を極めただけ で、時代はすでにそのグラフの延長線から離れた別の線上で、第一次世界大戦の空戦の戦訓で導かれたランチェスターの法則を実証する戦争に変わっていた。
(とは書いてなかったが、制式採用から4年後のマリアナ沖海戦ではすでに時代遅れになっていたとは書いてある)

にも関わらず使われ方で「永遠の」と形容される技術のシンボルとしていまだに旅客機の開発技術力の惹(き合い)句にまで引っ張り出されている。(あの ! NHKの7時のニュースには思わず笑った。記者も主(ぬし)持ちのサムライだねー、安倍首相の人事はさすが・・・と皮肉ってもおられない)
特定目的に軽量化しバランスを欠いた装備の旅客機って大丈夫 ? と、外国ではセールスの足を引っ張っているのではないかと心配になる当CEOであります

それはさておき、百田氏の主人公の造形は超人的な飛行技能を持ち、その戦闘手法では上官や同僚から臆病者と陰口を言われても特別攻撃批判の信念を公言していた下士官搭乗員が自ら志願するという、東映時代劇の剣豪もののキャラクターからはじまり、任侠路線の理性と情念の不連続点に通じる理不尽な八方塞がりの構図とその後日譚を、「零戦」搭乗員達の戦中、戦後を生存者の証言を通して作者のメッセージで味付けして辿(たど)る筋立てなのだが ・・・

わかる人にはわかる、「総括」ですが、当時の任侠もののスタッフやキャストには戦争帰りやその翳を経験している人が加わっていました。百田氏は言わないだろうけど作劇術として熟知のうえで劇中劇の骨格に仕込んでいる。当CEO のタイムマシン・キャスティングなら宮部を池部良、大石は高倉健、でもこんなに背の高い(重い)飛行兵はいたのかな? 松乃は緋牡丹のお竜になる前の藤純子が・・・。昭和の匂いが出てくるでしょ。
わからない人にはわからない・・・か。

しかし、いまの時代に書く、あるいは読むなら本書でも指摘されている志願(ボランティア)だけで編制されたのではない組織的『特攻』の意味を「情の理」で語った次ぎに、百田氏自身も批判をしている体制側にいた人物を描き、同じ読者に読ませるはずである・・・が、氏にその気はなさそうである。

かれらも日本人であるのだが・・・氏はどのような組織や階級の人物を設定し、どのように否定または肯定をするのかと、当CEOは思うのであります。まあ、ただの悪役A、B・・・だったのかもしれないけれど・・・つまり、今も求められる国家としての必要悪なのかもね)
なお、当CEO はエンタテイメントの世界限定で ! 悪役の(あるいは、だった)俳優さん、女優さんの活躍に声なきエールを送っています
。ドラマの質はこの方たちの登場でほぼ決まっていますからね。

百田氏がエンタテイメント構成作家の「手練(てだ)れ」として業界で賞されているのは当CEOも大いに頷(うなず)けます。

敵艦に突入したものの爆薬は炸裂せず、すべてをもぎ取られて甲板に転がる胴体から取り出された写真の母と子を特定せずに終わらせたところは、読み手の想像力が試されているともいえます。

もちろん百田氏は、重い爆弾と気化した燃料が充満したタンクを抱えながら天才的な操縦技術で、目標とする敵艦隊から離れて前進展開するレーダーで管制された戦闘機群の邀撃と追撃をかわし、近接信管を付けた砲弾を撃ち上げる輪形陣のピケット・ラインをかいくぐり、「0」と共に、あたかもアメフトのランニングバックが100ヤード独走のタッチダウン(敵性スポーツに例えるな ! )を決めたようなスーパー・ヒーローの日本人だったと、ほんの数行で暗示しているのではありますが(映画だとどう描くのか)・・・
偶然(それこそ天佑、神佑とも言いかえられる特別攻撃の本質)で到達した平凡な兵士もいただろう、とも・・・読めるのは見事 ! な手腕です。

はたして本当に主人公だったのか、映像化する脚本家や監督の手腕もまた試されている。

百田氏はかなりの記録や資料を読み込んで構成しているようだけど、戦記ものや手記を夢中になって読んでいた戦後第一次世代の読者には、そのごった煮風の引用とまとめ方に加えて作家としてブレーク後の言動で薄っぺらく、うさん臭く感じてしまうのは否めないようです

参考までに、百田氏のいう作戦指導層ではないが、搭乗員ではない主人公として、知覧の陸軍航空基地を舞台にした特別攻撃機の整備を担当する技術将校が直面する苦悩を描いた『翼に息吹を』 熊谷 達也 1958年生まれ、初出2010年 1 -11月雑誌掲載 があります。氏の別作品での剽窃問題とは別に、資料の読み取りかたをこちら(文庫版あり)の併読で比較するのもおすすめです。どちらにも参考文献のリストが付けられています。

『蜩の記』 葉室麟 1951生れ、初出2010年11月より11年8月雑誌掲載、

はたしてこんな人間が、家族が、当時も今も在るのか (現在の冤罪死刑囚とその家族に普遍する話ではなく、また、現実に今あるとも思えない。あくまでエンターテイメントがベースの作品です) その意味ではこちらもスーパー・ヒーローなのだ、といえる。もちろん周到にそのような視点を選んでいるのですが。

本家と分家の血脈(けちみゃく)の争いが発端のストーリィの決着は、悪人も主人公に接して「人は変わる」といいたいのかもしれないがヒール役を務める城代家老の一人勝ち(ネタバレ御免 ! )である。 (エンタテイメントからノンフィクションのムードにあえて寄せたと言えなくもないけど

それに対抗するために主人公が藩政と仏門の幕藩体制の力学の中に仕掛けた藩誌の副本という文書の地雷も、はたしてそのなかで機能するのか、しても爆発するころには記録自体がどうでもよくなっている(エンターテイメントのカタルシスにもならない)明治時代に変わっているだろう、と言いたくなります。もちろん主人公に向かってではなく作者に・・・ですが。)

ネタバレついでに、血脈の争いといっても家臣たちの暗闘(私闘)のようなもので、記録が正本に残ってもあの城代家老ならそのまま穏便に処理するであろうし、主人公の切腹への沙汰も、当代主君の治政刷新がなければ先代の遺(い)言となる人事や諸策を奉持(ほうじ)することで(封建時代の)家臣団の重鎮、鑑とみなされたでありましょうね。

いっぽうでは、山里に移ろう季節の田畑や木々に清流、日の光と闇、子どもたち、働く娘たち、悪代官に翻弄される農民たちには、作者の感情のこもった視点を身近に感じさせます。白装束に身を包んだ主人公の覚悟の様式美は、映像になるとさらに涙腺を刺激するだろうなと、当CEO も思います。

個々を取り上げれば文庫版の R. キャンベル氏の後書きのひとつひとつに納得できます。しかし、そう素直には読めないな、と思う当CEOであります。

ここまで主人公を完全無謬に書き込むことでエンターテイメントのハードルを高く上げ過ぎている。主人公に並ぶヒール役の城代にも同等の魅力がなければならない。・・・が、そうでもないので、主人公の空回りに見えてくる。そこを狙うことで、読者にとっては空回りとは思えない現代組織の中の個人論と深読みさせる、というよりファンタジーとして読まれているようだ。(ただ、今の世でも余命を知ることになれば老師の言葉はせつないであろうが・・・)

エンタテイメントとしてはいまのところ内匠頭の切腹で終わったみたいなものであり、葉室氏はこの続編にあたる作品も書いてあるようなので それを読んで からの再読をして伏線を辿らねばなりますまい・・・とも考える当CEOであります。

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中間小説と呼ばれる作品は娯楽小説(エンタテイメント・ノベル)と教養小説(ビルドゥングスロマン)のバランスで成り立っている。どちらかに振れ過ぎたりオーバースイングすると幻想小説(ファンタジー・ノベル)になる。それぞれに居場所はあるのだが・・・

ここで上げた二作品は、ともに三人称の語り口だが、歴史の中に仰ぎ見るヒーロー像を作り出す若者の視点で描かれた二重性に作家の世代と読者の世代の間の巧妙かつ奇妙なコラボレーションを感じる、当CEO であります。

執筆時の百田氏は 50歳、葉室氏は 59歳。中間小説も袋小路に入って、こうした手法で若い世代に組織や体制の中での精神的居場所を諭(さと)し、故児玉清氏や直木賞の選者も含む同年代が共感、共鳴する時代になったのか、とビミョーに感慨深いものを感じる当CEOでもあります。

死者が生者のときに残した言葉や文字にどこまでの真実があるのか。『死者を語るは生者のみ』、後世、「時代をへた記録や記憶は読み手、語り手によって正誤に関わりなくどちらにも解釈や再生ができるという永遠の現実(真実なんておこがましい)」がおかしな方向に向かわねばいいのだけれど・・・
ニヒリズムに寄っていることは承知していますけど、単なるシニシズムですかね ? 下をよめばそうかも・・・ね)

こうした対語のフレーズでは、『天の声』が『人に語らせる』ってコラムは大学や高校の入学試験に使われ、それで落っこちた受験生にとっては腹話術みたいな、『人が語って天の声となる』と、逆転しているもんね。

ちなみに未読だけど「永遠の0」には同年代の著者によるパロディがある。
『永遠のエロ』 睦月影郎 1956年生まれ、初出2014年。 
ゼロ戦に、白い雲、青い空、そして 紺のタイト・スカートから白いブラウスの裾を出し前ボタンを1つ残して外した立姿で、ちょっと年上(当CEO より、じゃありませんよ) のお姉さんを配したカバー絵の文庫本です。全くのエンタテイメント(エロ・グロ・ナンセンス)が意味を持つ時代が周ってきたのかもしれません。えっ、「こんなのはいつの時代にもある」・・・ソデス。ま、山道を歩いていると平らじゃないのに登っているのか下っているのかわからない風景に出合うこともある。時代の分水嶺はあとになって分かるもんです。

当CEOはといえば、最近はビルドゥングス・ロマンに寄った作品を読むより、カール・ハイアセンなどの海外のジュブナイル・フィクションを読むほうが楽しいのだけど、いまだに未熟なだけなのかも

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  「ところでCEOよ ! 」、「主題だった新しいメガネには慣れたのかね ! 」 ・・・ですか ? それが・・・

『読書眼鏡』の英訳( Reading Glasses )を、辞書で日本語に戻したところ『老眼鏡』となってました
(したがい、上の書評は眼鏡を替えても、ひねくれ老人の世迷いごと、のままですか

けれど、この伝統的、保守的な形状のメガネは気に入っています。指一本でブリッジをあやつって簡単に鼻眼鏡にしたり定位置に戻したりできます。

題名は忘れたけれどヘンリー・フォンダが眼鏡越しに見上げる視線はけっして「上目使い」ではありません。眼鏡一つで老人の演技が決まるようです。

とても及びませんので、ピエトロ・ジェルミがモノクロームの映画だった「刑事」のラストシーンで心の奥を押し隠すようにかける色付眼鏡も欲しくなった(何色だったんだろう ? グレーか、ブラウンか) ! ・・・と、どこまでもミーハーな当CEOであります。

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2014年11月 1日 (土)

キネマ航空CEO 読書眼鏡を買う

Reading_glasses

当CEO は両眼でパンフォーカスです。パンフォーカスとは、写真や映画で使われる用語で、画面全体にピントが合っている、状態です。

当CEO の場合は、右目で25㎝から60㎝、左目で60㎝前後からほぼ無限遠、に焦点が合っております。(厳密には対象の明るさによって多少前後しますけど)

したがい眼鏡なしでも生活上はなんの不都合もありません。ただ、両眼立体視が必要な車の運転には右目の近眼視を矯正する眼鏡を着用します。

で・・・突然、話は変わりますが、当CEO は最近のベストセラーと呼ばれる二冊を読む機会がありました。

問題は、これらの洛陽の紙価を貴(たか)めたどちらの作品にも、当CEO は何とも居心地の悪さを感じてしまうことです。

一方では、これらを映像で見たら、心を揺さぶられるんだろうな、ということも分からないではありません。

当CEOも、かつて大きなスクリーンで見た『七人の侍』のインターミッション直前にあった、雨の中(だったと思うけど ? 強い風が吹いていたかも ! )、最初の戦闘で討ち死にした千秋実を埋葬する場面で、その千秋実が作った「丸が六つ、三角が一つ、それに 『た』 を加えた」旗印を、三船敏郎が屋根の上に高々と掲げるシーン(藁屋根だから旗竿をさせるのですに流れる早坂文雄の「侍のテーマ」を奏でるトランペットが突然に高音に変調し、音を絞り出すと不覚にも涙がにじんだところで館内が明るくなったのを思い出します。

そして近頃、当CEO は特に活字の作品で感じることが多くなった、世評との乖離をもたらす原因にハタと思い当たることになりました。

そう、『右脳と左脳』の脳科学の基礎であります。例外はあっても右脳は感覚脳、左脳は論理脳という、あれであります。

そして、右半身にある感覚器官の情報は左脳の、左のそれは右脳の受容器官にはいる・・・

双方の脳は海馬と呼ばれる記憶のバッファー・メモリー(一時的記憶装置)である神経脳を介して情報の交換をして、それぞれの脳の機能が作用して人間の感情や行動を強いる。・・・じゃ、なくて 司る・・・か。

ただ、基本となる五感の受容器官神経の左右交差は事実であっても、それを理由とする個人レベルの思考もしくは志向そして情動とのあいだに学問的な相関は、ないらしい。

とはいっても、神経系の伝達距離には物理的な距離の差が存在しており、脳はかなり柔軟性のある器官のようで、当CEO の脳では・・・、同じ側の脳にある感覚受容器の情報を優先するように、『個人レベルで変化している』、しかも勝手に ! ・・・という仮説も否定はできますまい。(俗説はこんな具合に生まれるのでしょう

つまり、当CEO が普通に読書する場合は右目の裸眼で読んでいますから、読後の喜怒哀楽の感情は左脳の論理として発生している、と仮説がたてられます。

それならばと、当CEO は、少しでも世間により添うべく、左目すなわち右脳でも文字を読むために両眼視を明視の距離(35cmあたり)に調整した読書眼鏡を求めてみました。

『キネマ航空CEO 読書眼鏡を試す』に続く

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