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2015年3月の6件の記事

2015年3月25日 (水)

『心情リベラルの文明論を考える』 (地政学の巻)

Photo_4Photo_5

左は首都東京を中心とした半球、右は同じ海洋国家の首都ロンドンを中心とした半球。
この画像をあとで使います。

-------』の巻に併掲した「地政学」の巻を独立させて改稿の上、『文明』の巻に編入ました------

』に大きくかかわるのが、一見関係のなさそうな「地政学」という『』の分野である。また『文明』という言葉の通奏低音でもある。

リベラル派には、この「地政学」は鬼門となっていた時代があった記憶がある(当CEOは大衆向けの地政学の書評でそう感じた)。たぶんリベラルの『』にそぐわない問題が隠れているのだろう。

ただ先々回の『』の巻に掲載した「感情の一覧」にはない『無関心=無感(心)』は地政学では戦争でなくても人間の思考に深くかかわる感情である。

いっぽうでは為政者にとっては「地政学」の根底にある『遠交近攻』という言葉が有効につかえることにもなる。隣国にも同じ言葉(『』)があることは知識人(インテリゲンチャん。リベラルに多いそうだ)は『』で、無知蒙昧の輩(リベラル、コンサバの双方から思われているが同じ人ではなさそう)でも『』では感じることができる。

また『遠交近攻』は政治の延長の戦争だけでの『』ではない。中国は2015年中にアジア・インフラ投資銀行(Asian Infrastructure Investment Bank、A I I B)の業務を開始すると公表し出資国の募集を始めたがEUから英国が先頭を切り、つづいて独、仏、伊国が参加を表明した。当CEOの A I I B についての所見は こちら

日本は米国と並び慎重(批判的)で対中国、対ロシア・シフトの仲間と思っている G7 からの裏切りと見ているが「地政学」から見れば当然の戦略であろう。

EUからすれば遠くの中国の意図する市場のなかで経済メカニズムへの介入をはかり同時に米国、ロシアへのけん制も行える立場を選んだに過ぎない。少なくともEUの国民(市民)は参加については出資額を除けば遠くの経済戦争には無関心であろう。

米国からすれば「地政学」からはEUとさして変わりはない。むしろ参加してEUとの対中インテリジェンスを共有する方向を選ぶのではないかと考えられる。

早い話が先に述べたように現実に起こり得る対外国との関係では、国民の感情にもっとも迎合しやすいのは「遠交近攻」である。EUは西ヨーロッパでの『近攻』を避けようとする『』の産物だが、その外辺ではまさしく実践している。

文明』により国家が成立すると国民にとって最も怖いのは近隣国である。特に陸続きの国境を介した国においては海洋国とは比べられない脅威である(はずである。と書いたほうが無難かな)

そこで安全保障が『』として生まれるがそのための『』はいつかは破られる可能性を考え『』が不安をあおる。(歴史では多くの戦争や侵略は平和条約や不戦条約の締結後に起こっている)

政権をとれない(いや、とっても)リベラル・マインドの野党は「遠くの親戚より近くの他人」の『』を外交にまで敷延するのだが、相手もそうなのか ? の判断責任はかつての与党に押し付けたままである。一部のリベラルが「地政学」を嫌う理由が分かったような気がする。

さて、EUにとっては破綻したギリシャも中東も近いといえば近い。バルト三国にとってはEUに接近し、域内に入れるかどうか、それこそ命がけであろう。

おおかたの日本人にとっては遠い「ウクライナ」なんて理想論を言っておけばいいと考えるが政府はEU、アメリカに組している。(ポッポちゃん鳩山氏もあながち間違ってはいないが、いかんせん日本自体にそれだけの戦略を活かせる力がない)

冷戦時のアメリカは世界の警察として「遠攻近攻」を実行したがベトナム戦争では長引くうちに『何で「遠攻」しなけりゃいけないの』、という国民感情が生まれ、それ以降の「遠攻」はやってはみたものの、どこか腰が引けている。(ほかにも理由となる先例があるけどあとで)

日本の最周辺国(中韓)は「遠交近攻」のオーソドックスな戦略(オーストラリアはインドをはさんでまだ遠い、中国も北朝鮮を介していまは遠い)を展開している。

    (北極星から見た地球)
Photoいっぽうのロシアは『遠交』どころか、周囲がみんな『近攻』(をしたり、されたり)できる国になっちゃいました。

アメリカとは北極海とほとんどノーマンズ・ランドのカナダを介し、左はEU、右は日本がお隣さんで、中国には後ろを取られており、長い国境線をはさんだ「遠近」「交攻」を組みかえて前後左右に対する外交展開をするしかありません

これが行き詰まると核兵器をちらつかせるようです。手放せないわけですね。

ですから『遠交』できるのは南半球やアフリカの国しかありません。期待できるのは国連総会での支持だけですけど、拒否権をもっているからほどほどでいいわけです。でも、お金をつぎ込める中国がうらやましいところでしょう。

したがい、中国が行っているアメリカとの外交は対立めかした『遠交』の一環と見たほうがいい。つまり国連総会への「『近攻』する背景」の情報浸透ですね。(海洋国ではないつらさは中国も同じです)

中国にとっては拒否権は行使せず戦勝国として国連を『遠交』国の数を背景にそのまま維持するのがもっとものぞましい戦略となります。(反米発言は『』に触れる国が多いですからね)

アメリカの「遠攻」は北朝鮮の崩壊のしかた(つまり核兵器が韓中のどちらに行くか)では「援攻」となっていくと考えられる。韓国も日本よりはしたたかに「地政学」を考えている。

地政学」が人間の感情に大きな影響を及ぼしていることに納得いただけるだろうか?

日本は、いつの日かの見返りを期待して中東で「援攻」ができるようにしているが実施するのは「地政学」からはどうだろう。日本のリベラルはここでも『』と『』のバランスを考えるときが迫っている。

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地球を北極星から眺めると、太平洋の東岸とは違って(地震の多いところは同じだけど)西岸はアリューシャン、カムチャツキ、千島、日本、琉球、台湾、フィリッピン、マレー、ジャワ、スマトラ(あー、しんど)と多くの弧状列島や半島、群島が、ユーラシア大陸と国家帰属外の(つまり公海の)太洋とをへだてている。(海面下では領海に関係なく潜水艦が自由に動き回っており、大気圏の外に地表の国境や経済水域は関係ないけどね)

中国が軍事力をちらつかせてこれらの列島線に迫り、また列島線の外の海洋国(含むアフリカや南米)との『遠交』に奔(はし)るのも「地政学」で見れば納得できるはず。

ひるがえって日本はどうか、というと同じ海洋国でも英国とは「地政学」では大きく違うことも理解できる(でしょ ?)(冒頭の二枚の半球図を参照。中島「富嶽」で米首都を爆撃、なんて構想のアホらしさもわかります)

文明』を最大に行使できる国との間にある「ほど良い遠さ」と「遠すぎる遠さ」の差です。極東とはよく名づけたものです。

アメリカは第一次世界大戦のあと、大西洋をはさんだヨーロッパの戦争への不干渉政策であるモンロー主義をとっていた。当時と比べると飛行機の航続距離は格段に伸びたが、はるかに広い太平洋を介してではどうだろうか、の「地政学」の『』が残る。

チャールス・チャップリン・ヒンケルは『独裁者 “The Great Dictator” (1940)』のなかで風船地球儀をつついて飛ばしながら戦略を練っていました。(地球儀の地軸が傾かないのも理由あり ? )

しかし、ヒンケルを嫌うリベラルでも半球図ぐらいはテーブル上においてあらゆる角度から見るぐらいの余裕はいいんじゃないかなぁ。

この映画の初公開時の日米の反応も、ひとつではない『文明』を垣間見せてくれます。(閑話休題)

2015年3月23日 (月)

『心情リベラルの戦争論を考える』 (『知、情、理の巻』をいったん「了」。続いて『文明の巻』)

(承前)『の巻』補追

』は個人の内にとどまれば「自由」であるが『表現』や『行動』が伴なわれると厄介だ。とはいえ『』や『』の探求に対する「意欲」と、その前提となる「日々の動物としての行動意欲」に直結する。

これらの「意欲」に対してはマインドコントロールが行われる。何の問題ももなく行動できておれば「習慣」であるが、意識して自分でやれば「自己啓発」、他人を介せば「カウンセリング」、悪意をもって行われれば「洗脳」となる。

ただし「洗脳」は本人が悪意に気づかないで「自己啓発」のなかで行われることもある。といっても、なにが悪意か、は本人しだい、社会しだいの面はある。

社会が個人の『』に対して行う最大の干渉には「ロボトミー」がある。具体例はおくが映画では「カッコーの巣の上で “One Flew Over the Cuckoo's Nest” (1975)」や「時計仕掛けのオレンジ “A Clockwork Orange”(1971)」(ロボトミーではないがそれ以上の効果を得られる想定の生化学的治療法を扱っている) などの作品がある。 

3 回続けた『知、情、理の巻』はいったん「了」。続いて・・・

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文明の巻』

さて『』はもっとも扱いにくい。

山路を登りながら(漱石先生は)、こう考えた。
』に働けば角が立つ。『』に棹させば流される。意地(『』)を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
(「草枕(1906)」冒頭より、『 』や( )内、は当CEOが強調や追加をおこなった。)

なお、『』は「慧」、『』は「識」として、一応『』を使う行為を『』と、使い分けることにします。ただ、漱石先生の時代にそんな使い分けがあったかどうかは知りません。

これまで数回にわたって模索したように『』も『』も唯一無二の存在ではなく個人の解釈や思い込みで成立している。ましてや世界の全員が同じ『』や『』を理解し、共有しているわけではない。

漱石先生の考える通りに、人との間で解釈や思い込みが相克する個人の葛藤は『』になって流されるのである。

』に関わる最大の問題は当のご本人が流されていることに気がつかないことなのだ。集団になると『』の集約が集団の性格を決める。

こうなると「流されている」ことに気がついても「流れに乗らなきゃ!」という、「こうしたほうがいい『』」なのか、「こうすべき『』」なのか、たぶん、「こうしておけば安心できるのだ」という『』なのだろう、と思える状態になる。

つまりは『文明』は個人を人間足らしめている『』『』『』の三要素の集合体といえる。
いいかえれば集団の『』が『』と『』を集約した結果が『文明』であるといえる。『』と『』は『』の手段となる。

けっきょく、『文明』のなかの『』も唯一無二ではないのだろう。

文明』が抗争を戦争に格上げ(格下げか?)し、戦争の帰趨を決める。(一応戦争論だからね)

(つづく)

2015年3月21日 (土)

『心情リベラルの戦争論を考える』 (『情』の巻)

(承前)いよいよ『の巻』、『の巻』に続き『の巻』となります。これが意外と難しい。

一般に「喜怒哀楽」となるのだろうが、人間の感情ってこんなモンか? どこかヘンだなと思えてしまう。

苦しい時の「ウィキ」頼り・・・では、仏教から来たと考えられる「喜怒哀楽愛憎」の六情、「喜怒哀懼愛悪欲」の七情がある。これが中国で「喜怒哀楽怨」と五情となったようだ。

ここからは、当CEOが想像する日本四情「喜怒哀楽」の成立過程です。

おそらく、中国経由で大和に到来したインド発祥の仏教七情から派生した中国五情から「」を、あるいは六情から「愛憎」をはずしたと考えられる。

この脱落三情は、いずれも『』の中では他人とのかかわりが強い。日本的な美意識では生々しすぎたのであろう。しかし、「源氏物語」の主題はまさに「愛憎怨」である。

残された「喜怒哀楽」は「愛憎怨」をそぎ落とした後の個人の感情をコントロールする「」のなかで定着した(いわばフツーの人間の本能に目をつぶった)日本人の四文字熟語となったと思われる。

案外このあたりが日本人の付き合い下手というのか、外から見た「分かりにくさ」の原因かもしれない。

具体的な『』は、ウィキペディアからの丸写しで・・・あるは、あるは・・・、もっとあるけどそれはこちらの立体曼荼羅で・・・

・安心、不安 ・欲望 (意欲) ・期待
・感謝 ・恐怖 ・優越感、劣等感
・驚愕、興奮、好奇心、性的好奇心 ・勇気 ・恨
・冷静、焦燥 (焦り) ・快、快感 (善行・徳に関して) ・怨み
・不思議 (困惑) ・後悔 ・苦しみ
・幸福、幸運 ・満足、不満 ・悲しみ、切なさ
・リラックス、緊張 ・無念 ・怒り
・名誉、責任 ・嫌悪 ・諦念 (諦め)
・尊敬 ・恥 ・絶望
・親近感 (親しみ) ・軽蔑 ・愛しさ
・憧憬 (憧れ) ・嫉妬 ・憎悪(愛憎)
・罪悪感 ・空虚
・殺意
・シャーデンフロイデ
・サウダージ

なんで驚愕、興奮、好奇心にならんで性的好奇心があるのか?と突っ込みどころもあり、外国語の感情まである。どうやら複合した感情を短く示す日本語の言葉がないらしい。いっぽうでは、対象を特定した哲学用語の「ルサンチマン」はないようだ。

一覧のなかには戦争につながりそうな「」や戦争の中で感じる「」がありそうだが、意外な感情が戦争に共感するのかもしれない。

たとえば「大東亜戦争は白人による亜細亜の植民地支配を打破する戦争であった」などは「負けることで・・・」が抜けた『』での発言とおもえるが、これを支える『』には「愛」や「親近感」さらには「名誉、責任」があったとなりえる・・・のかもしれない。

「感情」は人間の本質とされ、他人が正常な(何をもってかは ?? だけど)個人に対して踏み込んではならない聖域とされている。個人には自分にだってもてあますほどの感情がある。

順番は変えたがここまで人間の特性である『』『』『』を振り返ってみた。次回から「『文明』の編」にはいる。

2015年3月18日 (水)

『心情リベラルの戦争論を考える』 (『理』の巻)

(承前)つぎに『』を考えます。

基本は、『』、『』、『』という概念に支えられた個人の『』の思考から始まるのだろう。(中には「天のお告げ」なんてのもあるようですが)

これが必要条件であり、十分条件として複数の、しかも多くの人間が、受け入れる、納得する、あるいは、従う、という『理屈』である。

ただ、印欧語圏では『』の三つの概念の頂点には宗教の教義にまつわる『』という概念がある。

しかし日本でははっきりしていない。「聖」は「徳太子」に使われたり、「ひじり」と読まれたり、「ご断」などもあった。いずれにしても中国から漢字が渡来したあとで宗教的な要素より人格的もしくは権威的な要素が強いようだ。

西洋の『』は『』から離脱する葛藤の進展 と 『』から離脱したあとの混迷と言えるようだ。

これについては、深く述べず、「哲学」から考えるテクストを挙げておきます。

西洋近代を問い直す」 佐伯啓思 PHP文庫 (2014)

Seiyoukindaiこの本は、山奥と都会の中間で「悠々閑々」を良しとせず、時には「多事多端」を「悠々自適」に過ごす(うらやましい)同年輩の知人から直接紹介をいただきました。

当CEOはここに出てくる哲学書を読んだことも、齧ったことすらなく、いくつかを要約で読んだ記憶がうっすらとある程度ですから読後感はバイアスにバイアスを重ねていますが、ほとんど納得できる内容でした

(バイアス: 基準となる点または線を偶然または意図的に変えた片寄り。したがい、ここでは偏見の意)

著者は東大、西部邁氏門下なのでコンサバティヴのお一人のようだが京大教授としての講義録の文庫化です。
ただ、それぞれの講義冒頭での前振りや当CEOが乱発する「閑話休題」のような中ダレ・キャッチは省いている建前論のような気がするのですが・・・(閑話休題)

その面でもリベラルを自認する方々は一読の価値あり。

』には「科学」と称されるものもある。
ただし、日本では『』のなかの「工学」を頂点とする「実学」の分野を「科学」と称することが多い。

「科学」は真理を追究する・・・といわれているが「『』の科学」がそのままで実用になることはない。

たとえば飛行機が飛ぶ揚力にしても基本はニュートン力学の第二法則(F = mα)と第三法則(作用と反作用)であるが実際には役に立たず、気体は圧縮も粘性も慣性もない理想流体として循環流という仮想の流れを導入することで計算可能な揚力の式が導かれている。

つまり「科学」のおおくは「真理」ではなく、このような「当たらずと言えども遠からず」を「(手前味噌の)安全率」でカバーする「実(用)学」なのですね。

思うに科学の真理は数式的な『』と深く結びついているようだ。たとえばアインシュタインの特殊相対性理論の E = mc2 の式を思い出すが、さらに真理を求めると一般相対性理論となって補正項がいっぱい付きだし、その式自体が美しいかどうかは当CEOには判断をつけかねる。(電子や磁気がかかわる現象へのニュートン力学の応用で発生する矛盾を補正するのがアインシュタインらの相対性理論となる)

アインシュタインの理論もニュートンの第一法則である「エネルギー保存則」と「光速は不変」の仮説から始まっている。数年前に測定の誤りとされたが光速より速いニュートリノの移動が話題となった。いずれにせよ科学の「真理」は工学で作られた測定器で証明されている。したがい、測定器が進歩すると・・・といっては科学者に失礼か。

また、それぞれの宗教の教義に伴われた『』もある。抗争や戦争の開始や継続が宗教の教義にもとづくことがどの時代にもある。(後述予定)

さて、先に紹介した「西洋哲学」のテクストは、日本(人)が、西洋さらにはアメリカの『』の中に安住していていいのか、との問いかけでもある。

では日本の『』が世界で通用するか、については読者に委ねられている。(つまりはどちらも袋小路にいるニヒリズムの時代ということか)

「哲学」は人間どもが右往左往している状態を整理しようという「社会学」ともいえる。したがい歴史の検証が必要である。ピケティの「富は富を呼ぶ」の理屈は現象としては自明であるが歴史の中で論考したことがすごい。政治技術論での反論も多いがこれからも歴史の中で検証される「哲学」と評価できる。(閑話休題)

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』と『』の頂点に立ち文明の中心となるべき『』を一言でいえば、地球上に同一時期に同一の『』などないといえるようだ。また個人または集団の『』は本当に『』なのか・・・という根本的な疑念も伴っています。

いやそれよりもっと大切な『』だってある。たとえば「人を殺すな!」とかの「『』の『』」である「倫理」はどうした、と指摘されると思います。

その通りですが、『』の一つである「法」には「正当防衛の殺人」、「心神喪失の殺人」は罪を問わない、と人間には殺人を犯す場合があることを認めています。

本稿は殺人を伴う戦争を考えていますから「倫理」はさて置いて、次回は『』を考えますが簡単に済ませる予定です。

2015年3月11日 (水)

『心情リベラルの戦争論を考える』 (『知』の巻)

(承前)まず『』から始めよう。基本的には、経験、伝承、教育などで得られるいわゆる知識の集合体であり、言葉、文字を得たことで集団を越えた知恵となる。

では、もっと根源的な『』の始まりはないのかというと・・・

映画『2001年宇宙の旅 ( 2001:a space odyssey ) 』(1968)では人類ではなく猿人の水場争いから始まっている。

ふとしたはずみに(モノリスに唆されて?触れてしまい)白骨化した動物の大腿骨を握った一頭の猿人が水場に近づいた他の集団の猿人を一撃のもとに殴り殺し、狂ったように残っていた骨格を粉砕し、高く投げ上げた大腿骨が宇宙ステーションに向かう今は無き PANAM の宇宙往還船となって、画面が数億年前から2001年に転換する場面がある。

いずれにせよ人間が道具を持ったのである。

』の与えた最大の功罪は物づくりである。おそらく生産性の向上や開墾のための道具の工夫を始めたのは農耕民族である。もちろん遊牧民族も馬具などの道具を工夫したであろう。

ちなみに人類最悪の工夫は中国でなされた発明と言われる火薬である。

武器の始まりは手足と歯であったが歯は刃となり手で扱われて殺傷力を増し、やがて弓と矢となり遠距離を競う。ついには火薬を使い、重く破壊力のある砲弾をさらに遠くへ飛ばし、つぎには砲弾自体に火薬が仕込まれ爆裂弾となり破壊範囲を広げる。

爆(裂)弾は飛行機によって運ばれ、飛行機は航空母艦により海洋に、多く、遠く、広く、展開される。また空中給油により飛行機自体が行動半径を広げ、潜水艦が水温の変化層に隠れ忍び寄る。

さらには、火薬を爆発させるのではなく燃焼をさせることで物体を飛ばすことができるロケットの開発がある。今にいたると燃焼する火薬に相当する物質の成分も異なってきており、扱うにも金がかかり大がかりな設備や組織が必要となってくる。

それに見合って、先端の爆発する火薬もさらに広範囲に破壊力のある核兵器となる。しかし、航空機によって行われた二度の使用からか相互不使用という奇妙な安定が生じている

日本の、広島の、長崎の理不尽な死は、歴史においては戦争の形態に大きな重しとして残されている。(後記へ)

(核保有国からすれば現在は『』の流動性でその安定がくずされようとしている。一面では弱小国の核兵器開発、テロ組織による入手、にもチキン・レースのうまみはあると言える

』は兵器の開発にだけ使われたのかというとそんなことはない。ただ本稿は一応、戦争論だからね。

』は「知恵」となって紛争や抗争を避ける手段にもなる。たとえば苦し紛れであっても「八方美人」、いや「嘘も方便」とか「ユーモア」とか・・・

ただし前者は、どこかでばれるだろうし、後者は相手が同じ知識レベルにないと通じないし逆効果もある。どちらも潤滑油どころか摩擦材か研磨剤になる。

つまりは『』を使うための万人に通じるルールとなる『』を、『』が自ら作り出すことになる。

(つづく)

-------------------後記------------------

クーンのパラダイム(科学的発展による社会的な断続的な変化の間の安定した期間)の変換とも言えそうである。しかし、古いパラダイムは続いている。

ゲルニカ(1937)、重慶(1939-1941)、ロンドン他(1940-1941、1944)、東京他(1944-1945)、ドレスデン他の戦略爆撃(1939-1945)、ハノイ他(1964-1973)など軍事施設に近接した市街地もしくはを人口密集地狙って行った通常の炸裂弾、焼夷弾による金のかかる無差別(無区別?)公算爆撃は戦争経営を圧迫する。

まず、ばら撒く爆弾の数、それを運ぶ大型の爆撃機とその数、数に見合った訓練や作戦に使う燃料 etc. etc。まず大型の爆撃機は数をそろえることが無理となる。

抑止兵器となる核弾頭付 ICBMにしても管理やメインテナンスに加えて継時変化に伴う更新を考えれば政府や議会の頭痛の種になる。

けっきょく、コストパフォーマンスから小型機(戦闘機や無人機)で運べる破壊力を減少した通常弾頭を付けた精密誘導爆撃となって科学によるコラテラル・ダメージ(予測される損害もしくは付帯する損害いわば許容できる非戦闘員への損害)のコントロールによる狙撃戦が継続される。

ただ、戦争の終結は陸軍による面の確保がなければ決着がつくことはない。つまり『』の下で行われる軍政による秩序の再構築が必要になります。

海空戦で決着したと思われているフォークランド紛(または戦)争(英国は War ではなく Conflict と呼ぶ)においても陸軍による面の制圧後に終戦となっています。もとは自国の管轄下の諸島だったので軍政を敷くまでもなかった。
(日本が竹島に手を出せない理由、中国が尖閣諸島を棚上げにした理由、また岩礁を人工島に変える理由、が理解できる)

現在の米国には占領軍政の基礎となる財政の負担能力も相手に受け入れられる『』もない。この点では、少なくとも占領下の日本人には『』による自制はあったようだ。

なお、これ以降の米国の戦争はことごとく失敗している。ある意味では日本は米国に「世界の警察(もちろん実質は軍隊)」という甘い夢(成功体験)を見させてしまったようだ。日本人も罪なことをしてしまったのかもしれない。

-----------------(閑話休題 2015/03/11記)--------------------

「科学(『』)の発展によって生ずる」パラダイムの変換といえば、来日しているドイツのメルケル首相は「科学的発展が見込めない」ことで原子力エネルギーを集中させる発電方式の中止というパラダイムの変換をおこなったようだ。

ここで我らが安倍首相を引っ張り出すのもなんだが、日本人の責任で行う原子力発電所の再稼働はともかく、海外への輸出のセールスをはかるとはね。『』の理解力が違うようだ。

福島の事例は明らかに日本の国土を減少させたことは明白である。その代り西ノ島に新しい領土はできている、とはいってもいつ住めるようになるのやら。

大体が日本の設備技術は、日本人にしかない細密さ、こだわりの管理、勤勉な国民性、などがセットになって宣伝、喧伝されている。

設置先の国土を実質的に減らすかもしれない設備を輸出して、その管理を日本人以外にまかせてダイジョーブなの?かもしれないの想像力は必要。中国が攻めてくるかもしれないとかね。軽重の判断はしてるんだろうけど・・・)

いや福島の事例は未曽有の天変地異が施設の想定外の状態で生じたものであり、輸出では想定を変えるし、(中東の原発なんて格好の標的になりそうだけど)現地での未曽有は現地の責任だからダイジョーブなのだろう。
(ところで原子力災害って保険の引き受け手なんてあるのかしらん?もちろん輸出先が掛けるんだろうけど)

ラジオアクティビティ・セールスマンよりトランジスタラジオ・セールスマンのほうがよっぽど罪がない。(といってもトランジスタは産業のコメと同時に兵器のコメでもある。ま、日本の専売ではなくなったけど)

2015年3月 7日 (土)

『心情リベラルの戦争論を考える』 (「そもそも」論の巻)

(承前)「そもそも論」でいえば『戦争』は『人類』が現れ、集団を形成したことからはじまった。

『戦争』の芽となる抗争は、同種同族の動物のなかで個体同士が『生存』、すなわち食料と生殖、をかける目的があった。人類の『戦争』は同種同族の集団間の抗争といえる。

もちろん人類が集団を形成する目的も『生存』につきる。

さて、その集団は、生存のための食として採集か狩猟、すなわち植物性または動物性の食料に分化していく。

黎明期にはふたつは混合していたと考えられるし、採集に近い漁労も加わる場合もあったであろう。そして地勢がその集団の将来の形態を決めたと考えられる。

採集を主とした集団は定着し自然に手を加えて農耕をはじめ、狩猟を主とした集団は家畜の餌を自然に求めて回遊する遊牧を採用した。

食糧自給の安定とともにそれぞれの集団が拡大して民族となる。

最初に発展を遂げたのは農耕民族だと考えられる。地勢を変えて治水や開墾、耕作を行う農耕の労力を管理して食料を増産するという点では原始共産制とも呼べない階級をともなった包括的な統治と呼べる管理を行なう集団になったと考えられる。

いっぽう遊牧民族はというと、定着する農耕民族の集団性より、移動中にいつ遭遇するか分からない脅威や状況変化に対応できる分散した機動力を独立して行使できる集団の集合体であったと考えられる。

つまりふたつの集団は起源を同じくしていても集団の性格は大きく異なっていると考えられる。映画『シェーン “shane ”』(1953)は先に定着した牧畜業と後から進出した農業の抗争であった。ちょっと強引だけどね。別に牧畜業は乱暴な集団という意味ではない。その前に先住民族を追い出したという話はまたあとで。

こうした集団の拡大は隣の集団と接触し、境界線を作り国家の形態を作り出した。その境界線も交渉より抗争のほうが多かったはずである。境界線が定まっても拡大を試みる争いは続く。

集団の盛衰を左右するのは生産力を持つ土地そのものである。

特に農耕民族にとっては新地を開拓するより既存の農地を抗争で奪うほうが効率的であり、勝者側の人的損耗も生き残った敗者を労働力、繁殖力に使うことで勝者の生産力の拡大がはかれる。戦乱が収束した江戸時代でいえば扶養家族を含めても人口の10%足らずの管理職で250年にわたって社会を運営できていた。

ちなみに漁労をおこなう集団は独自の文明への発展には限界があり地勢によっては農耕集団の中に組み込まれていったと考えられる。(後述予定)

前近代国家を形成する戦争形態が「文明」の黎明期にはすでに成立していたと考えられる。

さあ、戦争だ!・・・

でも、その前に、以降に出てくる『 』内に入れた用語は学問的な定義とは異なることを宣言して・・・ついには、『文明の衝突』が始まるゾ!・・・

さて、戦争を行う条件はすでに整っているが、戦争を起こすのは『人間』である。

人間』が『人間』であることは、『』、『』、『』、を獲得し、『』、『』、『』、をテキトーに使い分け、ごちゃ混ぜにする能力をもった生命体であることにつきる。(つづく)

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