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2021年7月の1件の記事

2021年7月14日 (水)

キネマ航空CEOの「ちょっと異論を」

畏友との交換メールで指摘を頂いた「怪気炎」にさらに寄せた勝手にコラボレーションを三箇所に分けて追加「放射」をしてみました。長文です。既読でしたらこの「文字色」のみをお読みください。未読でしたら 、橙 の順に二回に分けて読むようお勧めします。 
キネマ航空CEO(2021.08.21)

峠を三つ四つほど越えた北の中山間地に住む篤学の畏友より梅原猛の初期の著作をお貸しいただいて以来、互いに気になる本を交換して当CEOは若き日に読み込むこともなかった本に啓発を受けている。

当CEOは、と言うと技術(正確には機械工学)屋で半生を過ごしておりおまけにミステリー小説が好きなので与えられた数式や言葉を手がかりに再構成をする「悪い癖」がある。

余談だが工学屋は法律屋と違って原典を丸暗記する必要はない。必要に応じて参考書に戻ることができる。複数の本に当たると書いてある結論(の数式)は同じでも記述には個性がある。

いっぽう小説を含む人文学書にある評価や結論は定説・通説・異説・新説、時には珍説であり真説と銘打たれると疑いたくなる当CEOであり、紹介される本についてはなるべく関連のありそうな数冊の本を併読再読をして幾つかは士に紹介している。

さて士は当CEOがお渡しした本のほぼ全ての書評をご自身のブログに掲載してくださり当方はメールでお送りしている。ブログを含めSNSは自己肯定の手段でありアイデンティティというよりダイバーシティで成立するのだがツールに付随するオープン・コメントは諸刃の小刀となる。

結果は「お察しの通り」当CEOの書評には悪い癖が出ております。本来ならば会って「異論の異論を」と進めたいのであるが今ではそうも出来ない時世時節に齢(よわい)を重ねる夏となっている。

時世時節は【ときよ・じせつ】と湯桶ゆ・とう】読みだが、音読みの【じせい・じせつ】でも良いらしい。
当CEOの世代は佐藤惣之助の歌詞、古賀政男作曲「人生劇場」の「【ときよ・じせつ
 変わろとままよ (吉良の仁吉) 男じゃないか おれも生きたや (仁吉)のように・・・」で覚えているはず。

人生五十年が百年に近づく時代に(仁吉のように)変われないことがその人生に残された美徳で良いのかの命題とともに ・・・ 「初志貫徹 それとも 君子豹変、それが問題だ」 とシェークスピアは言っていないし超訳でもない。両熟語の本義からはこのように並立させた文章は間違っている。
前者は出典のない危険な匂いもする
日本人好みの合成による四字熟語、後者は故事成句で君子豹変 小人面革/君子は豹変し、小人は面 (つら)を革 (あらた)む」by 伏羲 on 易経。

仁吉が変われなかったのは「(義理)(人情)のこの世界」だったのだが21世紀の日本人は「(見栄)(スコト*のこの世界」なのかもしれない。
スコト*(勝手な短縮語):スコトーマ【Scotoma】/眼球構造上の医学用語で視細胞が存在しない「盲点」だが心理学用語に転じて知識的・心理的な盲点として本能や不足を含む学習・経験などで五感や第六感の中からあるいは記憶や思考の中から本質となるものを無意識に排除してしまう脳内作用を指す。認知バイアスとか確証バイアスとも呼ばれる。

むしろ21世紀の日本人に必要とするのは「仁吉」に変わる人物なのかもしれないが・・・それにつけてもねー

以上は、訓読みの四字熟語では得手勝手えて・かって】で、畏友からのメールにあった音読みの快刀乱麻【かいとう・らんま】ふうに追記してみたが妖刀乱斬ようとう・らんざんまたはあやしのかたな・みだれぎりとなっちゃって危ないな―。・・・これにて閑話 (その1)休題

今回の本は当CEOからの、
希望の資本論 - 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか」池上彰X佐藤優 2015.3 朝日新聞出版最近の当CEOは対談鼎談の書き起こしを好んで読んでいる。もちろん組替、差換、取捨、加筆など編集者の裁量が働き双方の発言者の承認を得ているはずでありライヴ討論のような感情吐出は適当に削がれている。その分読み易い。
以下はほぼ原文のままの士への未掲載コメントです。

A さま、

特にコメントの投稿はしないとお伝えしていますが若き日の幻想に重ねた老境の心境を投稿したくなりました。掲載についてはお任せします。

1800年代後半の「資本論」出版後、数世代を経た若者に伝えたいけれど、見落とされがちな本書の一文は佐藤優氏*1)の「マルクスがナチズムを産んだ」です。いっぽうの池上彰氏はあまり反応していませんでした。(「そりゃあそうだろう」とは思いますが)

さて、ナチス政権はかなりの部分に社会主義的な施作がとりこまれており現在に引き継がれる源泉徴収、引き継がれなかった大企業への課税、労働者に向けた有給休暇に付随するスポーツ芸術レクレーションなどを行うKdF(歓喜力行団-翻訳するとアジアの某国を連想させる?)、日本では未だ決着を見ないアスベストの禁止などの環境対策、その他多くの社会主義的政策(いずれも人心懐柔誘導政策と言われようが)を実施している。

人種、宗教、身体、知力に対する有るまじき行為のみ喧伝されるがこうした社会背景と並行していた。
いまもどこかのしかも複数の国と重なりませんか?

資本主義の限界とともに社会主義の資本論と統治論の相性は良くないはずだが結構良い*2)事実が歴史的な推移としてあることも若い世代に伝えること、これから考えてもらいたいこと、として明確に残しておきたいと考えます。
*1)誤記の訂正 校正ミスと言いたいがボケが始まっている証拠です 
*2)追記 思わせ振りな表現を直接的表現に変更 以上2ヶ所変更

Z 拝 謹記

追記
マルクスは本当に共産主義を信じていたのかそれとも単なる父親だったのか、娘が社会主義者と結婚すると言い出すと猛然と反対し娘には駆け落ちされてしまうという悲喜劇が映画*3)となり近日公開されるようです。当地で公開されるかどうか。
マルクスのパトロンでもあったエンゲルスの描かれ方に興味があります。
*3)追記「ミス・マルクス」(2020)/ スザンナ・ニッキャレッリ 監督・脚本 /イタリア・ベルギー合作

当CEOは温故知新とはいえ本書のタイトルはいささかミスリードであると感じた。無償で読める帯にもその気配はあるが、よく読めば資本論を構築したマルクスの「論理力を学べ」という趣旨であり内容も少なくとも佐藤氏は資本主義に取って替われる唯一の思想が共産主義としている訳ではない。(余談だが同系列の文庫版の帯はまさしくプロパガンダになっている)

「資本論」が当時の知識層によって書かれて後の知識層に浸透した理由は「科学的社会主義」としてマルクス(1818-1883)が掲げた時代背景としてのダイナミズムである「科学」という「客観性」を思わせる要因、ほぼ同時期にデンマークの哲学者キルケゴール(1813-1855)により定義された「ルサンチマン」への共感もしくは恐怖という要因が強く重なっていた心理的な作用と考えられる。

「資本論」の科学と呼べる「経済学」とそれを基にした推論すなわち「弁証法」的「哲学」の帰結としてもしくは「科学的革命冒険小説」として到達過程(コース)と達成点(ゴール)が共産主義とされるが中間ゴールとしての社会構造は社会主義の「プロレタリアート独裁」社会としてしか世には知られていない。

とにかく「独裁」が必要かつ十分条件の社会らしいがその先の真の共産革命による最終ゴールとされる(共産)社会はどんな社会なのだろう。ある人たちは縄文時代に返るのだと言うのだが・・・はて(閑話休題)

さて、本来の「科学」となる論理には客観性を示す数式で表される数学を伴っている。そして「経済学」が科学として数式を扱うととんでもないことになるのは21世紀の最初の10年でも経験した。

数式を扱わない科学の極北は「哲学」であります。何を扱うかというと言葉の定義を革新し、さらに新しい定義を創出して新しい論理を構築し新しい概念を展開することであります。そうした観点からの資本論を読む参考書として(日本人の著作は辛気臭いと思えるので)以下の海外の二冊をあげておくと・・・まず、

スミス・マルクス・ケインズ ‐ よみがえる危機への処方箋」ウルリケ・ヘルマン著 2016 鈴木 直 訳 みすず書房 2020.2
「科学」としてのマルクスを真ん中において本書は近代から現代にかけて時代に影響を及ぼしたタイトルの三人の経済学者ばかりでなく先行者や後継者の経済哲学を幅広く扱っている。
マルクスについては「第五章 科学になった社会主義-資本論(1867)」で三つの誤謬とマルクスの意義について考察している。
マルクス - FOR BIGINNERSシリーズ」文・イラスト エドワルド・リウス 1978 小阪 修平 訳 現代書館 1980.10
「哲学」者としてのマルクスを太古からなのだがとりあえずはギリシャとローマすなわちキリスト教と絡めて名前だけは知っているヨーロッパの哲学者の思想の水脈としてイラストと一緒に説き起こしている。
リウスはメキシコ人であり内容からはマルクス主義の信奉者なのかアナキストなのか判然としないが著作自体は1989年の天安門事件(6月)、ベルリンの壁崩壊(11月)の9年ほど前であり、ルサンチマンとして中南米ではそれなりの影響力を持っていた時代の雰囲気が分かる言わば共産主義運動の原点をまとめている。

三作ともに多くの参考書籍を上げている。は、日本の著者による(当CEOは上記の理由で読んでいない)日本語の新旧8冊。は、各章建て内では著者、巻末は訳者の推薦だが翻訳文献が主体。は、訳者による翻訳物を含めて9ページの概要付紹介と著者による(結構役に立つ)7ページの用語集「ことばの辞典」が付く。

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取り敢えず「科学」としての「資本論」の現在位置は  で分かる。いっぽう「哲学による推論」の分野は理論通りのコースには進んでいない。

いわゆる共産革命は資本主義の爛熟によってではなく20世紀の未熟の国で起こっており21世紀に残ったのは後発ながら「資本主義」国からかき集めた「専制資本」を振り回す資本主義と言やー資本主義の変形変態と言える中(ちゅー)どころか大(たい)の国となったけど 小(しょー)もないと 落ち つかんナー・・・

Show must go on! 【しょー・ますと・ごー・おん!】(訳)ショーは始まると止(と)められない!/(状況例)ァそうれ!「 KPRFF  追風(おいて)に帆掛けて、||: しゅら、しゅしゅ、しゅー 》》》 ( 歌の文句は回るたびに変わるがその内初回から繰り返し ) 》》》 一度回れば、KPRFF 追風に帆掛けて、:|| とEndless

地球上の国家や地域の棲み分けの数は2018年に再び専制主義国が自由主義国の数を超えた。自由主義もしくは民主主義の建前で成立した国際連合の覇権は遂にGDP第2位となった専制主義国に渡ったのでありますね。

「ルサンチマン」なぞ克服した白髪三千丈の歴史の治乱興亡を自覚している老練老獪な指導者層には、マルクス(1818-1883)が科学的弁証法で読み違えたのはこの一点であって、この現実が共産革命の本来の過程でありトロッキーやゲバラが世界同時革命で、そして鄧小平が党中央委員会の国策の形を経済第一に変えた雌伏の夢で見た中間ゴールとして納得できているのかもしれない。

「ルサンチマン」とは人間の感情についてのキルケゴール(1813-1855)の哲学上の定義だが、その定義をニーチェ(1844-1900)がそっくり逆転させた定義もある。ニーチェの哲学は本人の意志はともかくとしてナチス(ヒトラー 1889-1945)に利用されている。不勉強ながらある意味では権力者にとっては解釈し易い(吹き込まれやすい)哲学なのかもしれない。また別のある意味で己の追求では究極の哲学かもしれない・・・またの機会があればということで閑話を休題します。

以下、畏友とのメールのやり取りの一部抜粋と固有名詞の変更による補足を追加(2021.08.08 追記)

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Aさま、

さて・・・『怪気炎(調子がよすぎて、真実味がないように聞こえる)を放射し・・・』とは恐れ入ります。
せめて・・・『快気炎(さっぱりしていて威勢のいい言動)《「怪気炎」をもじっていったもの》』と言って頂きたかった。

貴兄が当CEOを「怪」(あや)しんだのは、マルクスに絡めてアンチ美わしの国の主神(ぬしがみ)である中の国を「資本主義と同時に共産主義も限界点に近づいている」とオチョクっているためかなと思います。

(中の国としてはマルクスの定義する中間到達点であるプロレタリアート独裁ならぬエリート集団である党中央委員会専制が社会主義段階のつもりかな

当CEOからするとマルクス予言の資本主義から社会主義を経て共産主義へ順序ではなく片方は社会主義段階で擬(もどき)資本主義となりそれぞれの限界点が同時に近づいたとマルクス哲学を読む仮説がメインテーマなのですけどね。

歴史が繰り返すならば現在の中の国は80年前の日本と同じ建前と国情と思えばよい。日の本と違うのはルサンチマンをニーチェ的に制御できる中の国は追い詰められたのではなくキルケゴール的ルサンチマンの思想で仕掛ける世界革命を遂行する立場であり、社会インフラと民心の脆弱性を突く争いになること。したがいどっちが勝つかは分からない。

当CEOもどっちが勝つとか賭け、いや書けませんし、書いてもいません。したがい「怪」と言われても仕方がないようです。

さて、資本主義と共産主義の拮抗は西洋文明と東洋文明の対決となるのでしょうが当CEOには「東洋文明」も「西洋文明」と同様に、むしろ広がりすぎて神話的戒律が見えない分より恐ろしい文明なのではとの疑問が残ります。

Z 拝

地獄にいるのか天国にいるのか煉獄に居座っているのかマキャベリがマルクス主義を評して、世界の言語に翻訳された共産党宣言を聖書と置き換えた宗教による帝国の再興どころか、衰退する二代にわたる海洋帝国に変わり世界を二分する二大大陸帝国時代の勃興の一大叙事詩のシナリオ(脚本)になるまえのシノプシス(概案)に過ぎない「俺を呼べ」と言っているそうだ。

東洋では諸葛亮孔明か。伏龍は「三顧の礼」を待っているのかな。「丞相病厚かりき」かも。「丞相がダメなら孫氏だな」「どの孫氏?」
「それより東洋の端の日の本には対抗できる政治
軍師なんぞいないぜ」「やっぱりMRXか」「いや、いまじゃ日の本のMRXは知識人の神様だ」「MRXがゴッドならXSTの代わりが要るな」「そこだよ」・・・「距離を時間で制することによって覇権が大洋から大陸に変わる境い目で時代に遅れる逃げ場の無い端っこの宿命か」「英の国もその口かもな」「ぼそ・ぼそ」「ピィー」・・・聞こえなくなった。別の部屋に移ろう。

「ピー・ガガアー」「ボ、ボリュームを下げろ!」「ァンチ・クルーセイド(反十字軍)とぉ、イコノクラスム(聖像破壊)でわぁ、すぐにぃ合意できるはずのぉイスラムとぉ、今こそぉー共闘おぉー推進するしかぁーなぁーい! イコン(聖画)わぁ直ちにやれるだろう、アイドル(偶像)もぉ!いつかわぁー!やるしかなぁいーッ」
・・・
こちらは、当CEOが60年代によく聞いたけど当時よく分からなかった日本語による演説口調の21世紀版パロディらしい。
「わっかるかなぁー、わかんねぇだろうなー」(By 松鶴家 千とせ 70年代の「イェイ」)

この分野はあまり研究されていないようなのでとりあえずは科学も弁証法も哲学もお構いなしで佐藤優ゼミでは破門退学と処分されるだろう当CEOの言いたい放題の分野だもんね。

マルクスが予言しようが読み違えようが、どんな世でも生きられる人間は生きられるのであり、あらがって生きようとする人間もいるのであります。

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キネマ航空を名乗っていながら映画に言及しておらず運航規約違反になりそうなので閑話休題を少し・・・

未見ながら「マルクス・エンゲルス」(2017) ハイチ出身のラウル・ペック監督 フランス・ドイツ・ベルギー合作もある。

それはさておき、60年代の真ん中で多感ではありましたがのんびりのほほんと7年間の学生時代を過ごした当CEOには「資本主義と共産主義が同時に迎えた」ただでは済みそうもない時代の変わり目に遭遇する予感に興奮してもう少し長生きしてみたいと思っています。

そんな中から・・・映画版「けんかえれじい」(1966)監督 鈴木清順(1923-2017)、主演 高橋英樹(南部麒六)を思い出す。
原作ものだが(旧制)中学校の配属将校や他校のバンカラとの間で悶着を起こして会津若松に転校させられても性懲りもないケンカ三昧のなかで俳句に目覚めた麒六が入りびたるミルクホール(今の喫茶店)で出会う北一輝の登場から会津若松駅の号外で知った二・二六事件の思想的首謀者とされた北一輝の写真に目を奪われ「この大喧嘩はこの目で見なければ」と友人と二人で飛び乗った列車が東京に向かい疾駆するラストシーンまでの高揚感は、その間に挟まれた女子修道院に入ると告げに麒六を尋ねた道子(浅野順子)が非常呼集を受けて駆足行進をする隊列群に翻弄されるシーンの軍靴の音とともに不安感も含めノンポリの当CEOの記憶にも残っている。
二人は戒厳令下の東京駅に着く前に追い返されたのだろうがここまでのシーンはクレジットされた新藤兼人(1912-2012)の脚本を無視した監督の仕掛けだったとのこと。

原作となった小説は「けんかえれじい」 (1966) 鈴木 隆(1919-1998) 初出 理論社。
当CEOは分冊となった第一部・青春篇第二部・軍隊編 TBS出版会発行、産学社発売版 (1976) を今も持っている。もちろん映画とは全く異なっており北一輝の出番はなく南部麒六は著者 鈴木 隆(後の童話作家)の分身であり半自伝として読める。

青春編は舞台を岡山-会津若松-東京へと移し早稲田大学童話会で特高に検挙された麒六は友人に支えられながら未決囚の雑居房の中で始末書(懺悔録)をめぐる言葉の応酬で刑事や署長を相手に抵抗続ける顛末で終わる。
軍隊編では昭和18年11月、釈放された麒六は学徒出陣としてではなく、そのあとの卒業繰上げ扱いで招集されて入営し初年兵教育を受け北支へ送られ配属された部隊内で暴力や弁舌の応酬を繰り返しながら見習士官という消耗品に育て上げられて、第二小隊長となった麒六は敵中横断中の徴発行為をめぐり同じ中隊の第一小隊長と最後の喧嘩を始める。こちらは「続・けんかえれじい」として鈴木清順と彼の盟友たちとの共同脚本としてネットで読める。

同じ頃、「神聖喜劇大西巨人(1916-2014)が、光文社カッパ・ノベルズ版(1968-1969)として前半がプロレタリア文学の会報誌から一般書に移った。
教育招集された超人的な記憶力と雄弁力を持つ東堂太郎が社会的良識を意思表示できたごく少数の初年兵と共に最小の組織単位である内務班内の偽装死刑という個人に向かう軍隊の不条理に抵抗する。映画化の脚本も作られたようだが画像化は 作画 のぞゑのぶひさ(1949-) 脚色 岩田和弘(1947-)の漫画 全六巻(2006-2007) 幻冬舎刊 がある。

読み方にもよるけれど、いずれも軍隊は国家によって作られた閉鎖空間であるが国家と市民のイデオロギーが対立するだけの場ではなく軍隊も社会の延長であることに視点が移る時代の作品であります。

前書は「キリスト教会の教え」、後書は「マルクス主義の孤高*4)」をそして両者とも日本の詩歌や古文の一節などを糧に作者はそれぞれの生を主人公の生き方に託します。ネタバレになるかもしれないがそれぞれのヒロインは前書では長崎、後書では広島に所縁がある。
 *4) 後書の著者は統治手段としての共産主義とは厳しく峻別している。

それにしてもこの時代の若者は古今東西の知識を我が物としながらの苦悩をしていた。どちらも主人公のビルドゥングス・ロマンとして読めるのだが、どちらかひとつと言われると「けんかえれじい」の小説版(文庫版あり)をお勧めする。
単に当CEOが、主人公ひいては著者が退学放校処分となった岡山県第二岡山中学校の流れをくむ新制高校を卒業したにすぎないだけなのではありますけれど。

神聖喜劇」は文字で読まなければ主人公の意識の流れにはついて行けない。後半を含む長ーい全五分冊の文庫版あり。時代考証そのものは作画力に頼るしかないが、時代の背景となる大道具小道具を知るためにも漫画を読んでから取り掛かっても遅くはない。

こうしてみると毎回挿画入りの新聞連載小説も捨てがたい日本の文化でありますね。

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